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書いて頭の中を整理する、自己満足のたのしいブログ。

人生は一点突破

 昨日は久しぶりに遅くまで仕事をした。初任の人が何となく遅くまで一緒に残っていて、一緒に帰った。お喋りをする時間がたくさんできて、昨日の朝に書いた悩みが少し解決した。一時で終わるような悩みではないけれど、これからもおしゃべりしていこうと思う。

 

 昨日は感情の動く日だった。憤りとか悲しさとか、そう云うものを強く感じた。流石にここには書かないけれども。

 自分のしている仕事とはそういうことなのだろうと思う。目の前にある課題、仕事を愚直にしていくしかない。課題の多い子達でも幸せに教室で過ごせることを真剣に考えたいと切り裂けるような思いが突き刺さった日だった。

 

 先日、父と話していて『徒然草』の話題になった。父のすごく昔のエピソードを聞いて、読みたくなり、購入した。勉強嫌いだった私は、古典も真面目に受けなかったけれどもこれなら読みやすい。

 

『人生は一点突破』

 若い間は、あらゆる分野に関して一人前になり、その道で大成し、また芸能も習得し学問もしようなどと、将来にわたる遠大な計画を心に抱いているものだ。

 ところが、その一方で自分の人生は先が長いと、のんきに考え、なすべきことを怠り、目の前の雑事ばかりとらわれて月日を送ってしまう。だから、何一つ達成できないまま年老いてしまう。結局、なんの専門家にもなれず計画通りに出世も出来ず、後悔しても年齢は取り返せないから、走って坂を急降下する車輪のようにみるみる老衰していくのだ。

 こんなわけで、一生の間に、大事な人生目標のうちで、それらの重要性をよく比較・検討し第一の目標を決定したら、それ以外の目標は破棄して、ただ一時だけに専念しなければならない。一日の間にも、一時の間にも、やるそれに全身全霊をささげ、それ以外は全て切り捨てて何よりもこの大事を急がなくてはならない。

 どれもこれも捨てがたいと、執着するならば、間違いなく一時も達成できなくなるのだ。

 

 人生は一点突破ーーある者、子を法師に(第百八十八段)

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

 

 少しずつ、地盤を固めていく。自分に大事なものを自分で選び取って決めていく。仕事もプライベートも。大事なものは側にあって、遠くに行かなくてもその大事なものが何かは足元を見れば見つかるはずだ。

 先日iPhoneからFacebookTwitterのアプリを消した。いろいろなことが快適に回る。自分がどれだけ遠くのもの、様々なことに手を付けたがり、欲が出ていたのか分かる。そして、様々な情報に縛られていたのも分かる。情報過多の時代に、果たしてこのたくさんの情報を受け取ることは必要なのだろうか。本当に自分に必要な情報は、ごく僅かなものなのではないだろうか。

 いろいろな情報を真面目に受け取ると、本当に大事な情報、事柄、自分が本当に突き詰めていきたいことさえも見失い、あれもこれも手を付けたくなる。まさに、徒然草の内容だ。

 もちろん、SNSで大事なつながりもある。切ったわけでもない。これからも仕事を一緒にしたい人はたくさんいる。けれども、いまは情報に縛られすぎてそのたくさんの情報を真面目に受け取り息苦しさを感じていたのは間違いない。少し大人しく、じっくり足元を見つめて過ごす時間を歩んでみようと思っている。そして、一点突破を目指してみたい。

 

 

 

 

初任者に何ができるのか考える日々。

 自分のキャリアを3年や4年で一区切りとする人がいるように、私自身のキャリアは5年で一区切りとした。というか、今年の年度末は本当にそうしか思えないようなことがたくさん起きた。それはほとんど、5年で一区切りと考えなさいとまるで啓示されているような出来事ばかり起きた。割愛するけれど、それは悪い出来事、というわけではなかった。

 それで、そう思った矢先に今年は「初任者指導ね」なんて言われてスタートした。まさに、一区切りだったと思う、今年はまた新しいスタートだ、私にとって。

 私は実は、「指導」という言葉が大の苦手である。「指導」なんて言葉を使って取り組んだ日には、上から目線の姿勢がもうありありと出てしまいそうで恐ろしくなる。それで、今日まで初任者に何が出来たかというと何も出来ていない気がするし、では、何をしてあげたらいいのだろうと思えば、うまく言語化も出来ず、まとめることも出来ずに来てしまった。忙殺の日々が続き、向き合うことも出来ないといえばいいわけなので、あえて今日のテーマにして、振り返ってみる。

 

 ただ、ひとりで初任者になんとかしようとかは毛頭思っていない。周りには私よりもっと先輩がいる。というか、初任者を抜いたら私が一番若い(ここ強調、笑)ので、皆さんに聞くことも多い。

 それでも、一週間の振り返りを手帳に書き続けているが、初任への自分の課題が多く残る。

 それで、今考えていることは、『自分が初任の時に何をしてもらいたかった?』という問いを考えたというか、いまはそれしか頭にない。あれもこれもしようとすると、ついつい口が多くなる。しなやかに・・・渡し、伝えられることは自分があの時、してもらいたかったことだと思う。とても悔しい一年を過ごした。何をとっても、辛い時はあの時以上のことはないと立ち戻る。半分そこに縛られている自分がいる気がするけれども、あの一年を考えないで未来の自分はないと思うくらい、いまでも生々しく自分の中に居座っている。

 「あの頃してもらいたかったこと」とは六年目の自分から見て、これはやっぱりしてほしかったよね、と思うことを即日耐え、即時語り合えることだと思う。「即時」なんてこの多忙な現場ではなかなか難しいことだけれども、やっぱり即時がいいなと思う。

 

 まあでも、あまり焦らずゆるゆると、でも、自分の経験でやってきたものしか自分からは出てこないので、いいものを見せようとか云うよりも、事実を渡していけたらいいと思う。

 

 ということで、書くことで整理される自分の姿がこの時間でよくわかった。笑

 そして、自分がいま、初任者に何ができるのか、ということも自分なりに見えてきたのでオヒラキとする。

 

 

函館の知的障害者施設のこと。

昨日は、『この子らを世の光に』のことを書いた。面白くて毎日、とにかく時間を捻出して読んでいる。

 どんどん読み進められる本だ。ちょうど母が生まれた頃の昭和の年号がいつも出てくるから、母の時代は・・・なんて思って読んでいる。(勝手に)

 

 本もそろそろ終盤に差し掛かった。今日は読んでいて北海道の函館に重度障害者の施設を作ろうと、糸賀先生が決意したあたりだった。ふと、脳裏によぎった話があった。

 母の従兄弟も、実は、重度の自閉症をもっていて函館の長い歴史ある有名な施設で生活している話を昔聞いた。その時は、あまり意識していなかった。そういう親戚がいるんだ程度だった。

 割りと頻繁に一応生存報告だけはするので、今日も先ほど電話をした時に母にその話題を振ってみた。すると、母の叔母の両親も自分の子どもが知的障害をもっていてその子のために函館にずっと昔に施設を作ったという話が出てきた。どうもこの本には、昨日から、偶然の連続を味わわされている・・・

 滋賀の石山に、この本のことを知らずに先月訪ねていたこと、函館の施設のこと。

 施設のことは、これ以上は祖母に聞かないとわからないらしい。機会があったらまた聞いてみようと思う。

 

 母方は近いので函館に由縁があるのは何となく分かる。

 そういえば、父方も函館に由縁があって、函館で薬種問屋なんかをしていた。

 繋がるものは繋がるのだなと思った。おもしろい。

 

函館の施設のことを調べたら「この子らを世の光に」という碑があることを知った。ぜひ、訪ねてみたい、函館に。

 

 

プロフェッショナル。

 昨日は、プロフェッショナルの放送日だったけれど、私は見たくて録画ておいた田中将大選手の回を観た。

 

『氣持ち』

 マー君は毎シーズン、グローブに文字を刻むことをお願いする。デビューの時からからわない言葉だそうだ。自分を貫くとは、こういうことなのだろうか。自分のコントロールが一番難しい。自分のことだからわかっているようで、実はわかっていない。人間は一番自分のことが難しい。私にとって刻む言葉はなんだろうか。

 

 

自分の味方であれ

 自分のことをよくわかっている人は強い、そう感じた。

 どれだけ自分のことを理解して、仕事はじめ日々の生活が遅れるかなのかなと思う。

 

「自分が自分の味方でいてあげないと、誰も味方じゃないですか。結局やるのは自分だし自分が今までやってきたことを信じてあげないと」

 

 自分のことを卑下しないでもう少し、支えてあげないといけないと思う。 今の自分が一番できていないことだ。そして、すごいという人は自分の弱点も、知識でははなく、本質的に捉えていると思う。

 

 野球は投げるのが基本で、投げないと始まらない。そういう基本を積み重ねてやっていくしかない。

 そういうような話もしていた。やっぱり積み重ねなのだ。

 いきなりすごいことができるわけでも、すごくなれるわけでもない。

 コツコツと積み重ねていく人には勝てない。

 そしてそういう積み重ねがその人を作り上げていくのだ。

 

 観ていて元気をもらった。

 今日も少しずつだけれども、今日という日を積み重ねて過ごそう。

 

 

運命と感じてしまうなあ。

 糸賀一雄『この子らを世の光に』を読んでいる。

 今日も通勤中の電車内で読んでいた。

 

 

半分くらいは読んだ。

近江学園は、第一部と第二部で当時構成されていた。

伊勢に修学旅行に行く話が載っていた。石山駅から精神薄弱の子たちも連れて行くというエピソードだった。

この「石山駅」の名称が出てきた時に、この文節を二度見した。

石山駅は先月京都の研修会に参加した時に使った安宿の最寄り駅だった。

たまたま使っていた駅の名前をこうして一ヶ月後に読んだ本でまた拝見した。

刻々と、あのあたりの情景が思い出される。

琵琶湖畔、近江、石山駅

こんなタイムリーなことがあるのだろうか。

読んでいていま、とてもワクワクしている。

もう少し勉強したら、また近江に、石山駅に行こう。

そう思った。

 

今夜もまた読もう。

 

 

 

 

今日の出来事

といっても昨日の出来事。

お題スロットから。

 

バイオリズムというものがあるらしい。多分良くないと思ったら、本当に良くなかった。

昨日は、遠征して行こうとした研修会も行けずにキャンセルした。

色々手配していたけれど、そういう気持ちになれなかった。

体調より気持ちが不調だった。

最近は、本当にそれでいいのか自分に問をして自分と向き合って考えられるようになってきた。以前なら、決まったことは変えない精神で無理してでも出かけていたと思う。

 

休んでよかった。体より心が疲れている。

温泉に行ったり、自然の空気に触れたり、トンボの生命力に触れたり。笑

ゆっくり流れる時間の中に身をおいてゆっくり過ごした。

しばらくは、矢印を外ではなく自分に向けてひっそり過ごそう。

 

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お題「今日の出来事」

やめるのとあきらめるのとでは 次の道が変わってくる

 

   今日はあることをやめた日。

   先日も書いたのだが、最近の私は無理はしない。そして、自分のそういう芯をきちんと持つことが私が壊れないでいられるのだと思う。

 

   やめただけ。またやるのだ。

   諦めたわけではない。

 

 

    私はこの仕事をするようになってから、降車駅から職場まで毎日、今日の日記のタイトルが入っている歌詞を欠かさず聞く。

   自信のない自分への元気ソング。

   いつも励まされる。元気が欲しくて聞いていたらルーティンになっていた。そして仕事の日は毎日聴き続けて6年間くらい聴いている。人生では19年くらい聴き続けている。この歌が一番好きだ。(笑)

 

 

やめるのと

あきらめるのとでは

次の道が変わってくる

おもい 殘さないで

今 やるだけやろう

   やめたらまた寝かせて始めればいい。

   諦めてしまってはそこまでだ道が閉ざされる。安西先生も言っている(笑)

 

 誰かに誉められる人生

目指している訳じゃないの

私が喜ぶ生き方

ぶつかりながら見つけてく


誰かに認められるより

まず自分を認めなくちゃ

ダメなとこも いいところも

ひっくるめて 抱きしめよう

 

   やめたけどまた次の機会を決めた。

   私はエンジンがかかったように疲れるまで倒れるまでやり続けてしまうことがよくある。止めてもらったり、声をかけてもらったりしないとやめられない時もある。だから、自分のことを丁寧に考えて、自分で止めようと最近は心がけている。

   今日も自分を抱きしめながら、ぶつかりながら生きていく。

 

 

 

ちなみに、気になったので引用についても調べた。

歌詞がメインではなく記事のサブであること。

引用と主張を分けていること、が条件らしい。

この曲のここが好きって言いたい ブログに歌詞を掲載しても違反じゃないのは「引用」だ! - Try Something New

 

 

他者と関わる大切さを教えてもらった

 今週は休み明けのせいかすごく長い一週間に感じた。外に出向く日も3日あって、憔悴した。昨日も、帰ってきてからの記憶があまりない。そんな一週間だったけれど、素敵なこともあった。

 

 今週は私の提案で、レゴワークを一週間、中学年のグループに取り入れてもらった。「自分とはこういう人」というテーマをレゴの造形づくりで表現してもらった。やってみると分かるのだけれど、言葉をうまく扱える年齢になればなるほど、創造も発想も豊かになる。作っているものがうまい、ということではなく、自分が表現できるか、ということだ。

 私は、はじめ、この活動は、いかに自分のことをメタ認知できているかがポイントだと思っていた。だから、いきなり自分のことを言語化する前に、創作活動をワンクッション入れることで、自己との対話をし、自分を見つめ直した上で自分というものを言語化してほしいと思っていた。

 自閉症児は説明が苦手だ。という説がある。実際向き合ってみるとなるほどと感じることがたくさんある。そういう説明における練習も意図してこの活動を取り入れた。

 

 大体予想していたのだが、説明が苦手だったりWISCの結果が低い子は、「自分とはこういう人」というテーマを忘れて「レゴを作る」ことに熱中してしまい、すっかり忘れてしまうのだ。やってみると何人かそういう子どもがいた。

 だけれども、ある日のグループは違った。その子達から、学ぶことがあった。

 その日もレゴワークをやると、レゴマニアと自分で言っていた子は、作ることに熱中し、テーマを忘れてしまった。自分の説明の番になると、出来たものは立派だけれども、言葉に詰まってしまい、なにも言い出せなかった。私も、予測はしていて、そのときは、ファシリテーターとして「どうして窓をつけたのか」とか自分が無意識に選んだものをすくい上げ意識化させる質問を幾つか用意していた。

 すると、隣りにいた子が「〇〇くんの作った、この車はすごく高いけれど、これは〇〇くんのテンションの高さを表しているよね。」といったのだった。鋭い感想で驚いた。それの適切で鋭い感想が、説明できなかった子に響いたようで、説明できなかった本人は、「思いついたのでもう少し説明していいですか」とすぐに切り替えた。この、適切な鋭い意見を言う子がいたから、説明できなかった子は改めて自分に気づくこと、どういうことを言えばいいかということに気づいた。

 その後に、説明できなかった子は、「車を作ったけれどこれは僕の落ち着きのない早い感じに似ている」ということ「窓をつけたけれどこのすぐ後ろにレゴを積んだのはいつも気持ちが一杯になって上手く言えない自分。この窓は心の窓。」ということを付け足していた。立派な説明だったと思う。

 自分で考えが生み出せなくても、人と関わることで新たに気付けること、教えてもらえることがある。自分一人でがんばらなくていい。そういう単純なことなのだけれども、そういう当たり前の大切さを教えてもらった時間があった。私は目の前で大きな風が吹く感覚に襲われた。

 

 言えなかったら私が・・・よりも、やっぱり友達から教えてもらえたほうがいい。友達がいたことで勉強や学びが深まった。そういう大事なことを真剣に感じて味わったほうがいい。そういうことを今週は、子どもが教えてくれた。

 私も受け入れに時間がかかったり、素直に受け止められなかったりしてそういうことをたくさん無駄にしてきた。このやり取りを見て、人と関わる本当の大切さを教えてもらった。

 私自身がうまく言語化出来ないのだけれど、本当にすごい瞬間で目の前に風が吹いた、そんな時間が今週はあった。

 

 

 人と関わる大切さを忘れないでいこうと思う。

 

 

むりはしない。

 『がんばらないことをがんばる』なんて変な言葉なのだけれど、最近よくつぶやいている。こうでもしないと頑張ってしまう自分がいる。

 単純に云うと、頑張ることをしないでいる。

 

 お酒も飲んでいない。飲むといつも飲みすぎてしまう。飲むのは好きだが、なにか自分のしたいことがあるのに飲むとできなくなる。いつもやりたいことが結局飲んでしまい、出来ないというがっかりした気持ちになる。だから、飲まない。

 本を読んで知見を広めたい。だから、本を読む時間を絶対的に確保するために早寝早起きをしている。できれば、3時半くらいに起きるのが理想だ。だから、夜も遅くまで起きない。

 

 でも、この前述した2つは頑張ってやるものではないと思う。疲れてどうしても飲みたいときは飲む。仕事で遅くなったり、どうしても今みたいテレビがあったら遅くまで起きることだってある。「こう決めたからこうしなきゃ」と思った途端にそれが義務になってやることが目的になり、心に負荷が生じる。無理にやっても意味がない。すごく頑張ってやるものでもなし。

 人間関係も同じ。頑張って仲良くなろうとか、頑張って距離を縮めようとかも思わない。関心がある人は寄ってきてくれて、声をかけてくれるし、もっとよければ一緒に仕事や活動もできる。思いだけではない、本気で私に働きかけてくれる人はたくさんいて、私自身はすごく恵まれている、ありがたいことだ。

 でも、それは、頑張って無理につなげた関係ではなく、ゆるゆるとした中で生まれ、続いている関係なのだ。「〇〇だから…」と自分に無理に理由つけて仲良くする必要も、頑張る必要もない。そういう関係からは、いいものも生まれないし、長続きしない。私の経験上。

 

 っていうのを先日のある人の記事を読んで思って、自分にも言えることがあって自分でも整理してみた。その方曰く「よくばるとろくなことなし。しがみつくとろくなことはない。」

 そうそう、よくばらずしがみつかず。

 よくばると心が窮屈になる。しがみつこうとすると心が卑屈になる。

 無理にがんばらないし、無理にひっぱってつなげようともしない、人間関係も。

 

『僕が自閉語を話すわけ』までを読んで。

片倉信夫先生の、一連の四冊を読んだ。

はじめは、「僕が自閉語を話すわけ」の感想にしていたのだが、一冊だけのピックアップが難しくなってタイトルを変えた。

 

これは、自閉症へのハウツー本ではない

 変な話でわからないと思うが、自閉症を「自閉症」とみると「自閉症」でしか見られない。ということを一貫して片倉先生が著書で訴えていたたと思う。

 『自閉症とは』の本の最後に『「僕は自閉症そのものを問題としてこなかった。自閉症児が契機となって派生する人間関係上のトラブルのみを問題としてきている。」と、今は考えているのです。』という一文を読んだ時に内心「ああっ!」と思い、この一文が大好きですし、この一文を大切にして日々過ごしている。

 自分がそのような現場にいながら、「障害」ばかり考えているわけではなく、日々その子自身と向き合ってきた状態をうまく言葉にしてある一文だと思っている。

 四冊(「自閉症とは」、「自閉を砕く」、「僕と自閉症」、「僕が自閉語を話すわけ」)を読むと、片倉先生の苦悩された実践の日々が(自分が想像できる範囲でだが)目に浮かぶ。浮かんで見えるということは、多少なりとも自分の読み解ける力量があるのだろうか…そう思ってもいいかなと思う。

 

それでも技法は載っている

 ハウツーではないと前述しながらも、『自閉を砕く』、『僕と自閉症』あたりには克明な実践記録と手法が載っていた。昔の手法だからと軽視するのではなく、今でもできるのだろうか、誰にあっているだろうか・・・ということが、読みながら自分の脳裏をよぎった。いまは、〈まぐろさん〉をバランスの中で取り入れて行っている。先日、同僚が「まぐろさんをやったあとに片足立ちをしたら、本当にタイムが伸びました。自分もだけれど、本人もびっくりしているんです。」と話してくれた。一度で結果が出た、とあまり思わないようにしている。それでも、子どもがそのことをきっかけに、今後のモチベーションに繋がるのなら、(厳密に言うと「結果」では無いのかもしれないが)「結果」として捉えていいのかもしれないと思っている。

 技術というのは、最近はいいからなんでもやってみよう、より、これをする時、誰に響くだろうと子どもの顔や名前が思い浮かぶ。それで、ゆるゆるとまずなんとなくやってみようかな・・・なんて思うのが最近の自分だったりする。「もしかしたらできるかもしれない」あまり強く思いすぎると、自分の中の感覚で言うと「やらせ」に入ってしまうのであまり強く思わないようにしている。でも、「やらせ」感覚でやらせることも時には大事だ。それで思い出したので次の話。

 

選択させるその先で考えていること

 『どれがいい?』なんて聞くと、笑顔で「どれもいや」なんて言う子がいる。そこで『A、B、Cの中でどれがいい?』と聞くと、やっぱり「どれもいや」とニコニコして答える。少し前までどれも嫌なら無理にやらせなくてもいいと思っていたけれども、片倉先生のこの四冊を読んでいる中で、選ばせない残酷さのようなものを感じて、選択肢を出した時にどれも嫌という場合は自分で決めるまで選ばせるか、嫌でも勝手に決めることを強い気持ちでやることが増えた。もちろん、選ばせてパニックになりそうなときはやらないけれど。

 私が選択肢や選ばせる時に見ているのは、〈選ぶという行為〉もそうだけれどその先にある、ふざけていっているのか、本当なのかということなんだと思う。

 『僕が自閉語を話すわけ』に「アホのふりをしているとなんとでも許してもらえるので、アホは楽なんです。」という記述があったように、ふざけているのか、本当に選べないのか…選択肢を出した時、自分自身がこの部分を見極められるかを自分が自分自身を試しているのかもしれない。

 

 それで、結局どのあたりが本の感想になったのか・・・というところだが、本を読んで自分の考え方、気持ちの持ち方が少しずつ変わってきたと思う。選択肢・選ばせるということ、自閉症ではなくこの子とどう付き合うか・・・とかそういう部分。

 私自身はまだまだだけれども、自戒を込めてもう少し、先人が大切にしてこられた信念や思想に触れて学ぼうと思う。

 

 うまくまとめられなかったのでおしまい。

 

 

自閉症とは

自閉症とは

 

 

 

実践 自閉を砕く―脳機能の統合訓練と人格教育をめざして (障害児教育指導技術双書)

実践 自閉を砕く―脳機能の統合訓練と人格教育をめざして (障害児教育指導技術双書)

 

 

 

僕と自閉症

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僕が自閉語を話すわけ

僕が自閉語を話すわけ