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書いて頭の中を整理する、自己満足のたのしいブログ。

『僕が自閉語を話すわけ』までを読んで。

片倉信夫先生の、一連の四冊を読んだ。

はじめは、「僕が自閉語を話すわけ」の感想にしていたのだが、一冊だけのピックアップが難しくなってタイトルを変えた。

 

これは、自閉症へのハウツー本ではない

 変な話でわからないと思うが、自閉症を「自閉症」とみると「自閉症」でしか見られない。ということを一貫して片倉先生が著書で訴えていたたと思う。

 『自閉症とは』の本の最後に『「僕は自閉症そのものを問題としてこなかった。自閉症児が契機となって派生する人間関係上のトラブルのみを問題としてきている。」と、今は考えているのです。』という一文を読んだ時に内心「ああっ!」と思い、この一文が大好きですし、この一文を大切にして日々過ごしている。

 自分がそのような現場にいながら、「障害」ばかり考えているわけではなく、日々その子自身と向き合ってきた状態をうまく言葉にしてある一文だと思っている。

 四冊(「自閉症とは」、「自閉を砕く」、「僕と自閉症」、「僕が自閉語を話すわけ」)を読むと、片倉先生の苦悩された実践の日々が(自分が想像できる範囲でだが)目に浮かぶ。浮かんで見えるということは、多少なりとも自分の読み解ける力量があるのだろうか…そう思ってもいいかなと思う。

 

それでも技法は載っている

 ハウツーではないと前述しながらも、『自閉を砕く』、『僕と自閉症』あたりには克明な実践記録と手法が載っていた。昔の手法だからと軽視するのではなく、今でもできるのだろうか、誰にあっているだろうか・・・ということが、読みながら自分の脳裏をよぎった。いまは、〈まぐろさん〉をバランスの中で取り入れて行っている。先日、同僚が「まぐろさんをやったあとに片足立ちをしたら、本当にタイムが伸びました。自分もだけれど、本人もびっくりしているんです。」と話してくれた。一度で結果が出た、とあまり思わないようにしている。それでも、子どもがそのことをきっかけに、今後のモチベーションに繋がるのなら、(厳密に言うと「結果」では無いのかもしれないが)「結果」として捉えていいのかもしれないと思っている。

 技術というのは、最近はいいからなんでもやってみよう、より、これをする時、誰に響くだろうと子どもの顔や名前が思い浮かぶ。それで、ゆるゆるとまずなんとなくやってみようかな・・・なんて思うのが最近の自分だったりする。「もしかしたらできるかもしれない」あまり強く思いすぎると、自分の中の感覚で言うと「やらせ」に入ってしまうのであまり強く思わないようにしている。でも、「やらせ」感覚でやらせることも時には大事だ。それで思い出したので次の話。

 

選択させるその先で考えていること

 『どれがいい?』なんて聞くと、笑顔で「どれもいや」なんて言う子がいる。そこで『A、B、Cの中でどれがいい?』と聞くと、やっぱり「どれもいや」とニコニコして答える。少し前までどれも嫌なら無理にやらせなくてもいいと思っていたけれども、片倉先生のこの四冊を読んでいる中で、選ばせない残酷さのようなものを感じて、選択肢を出した時にどれも嫌という場合は自分で決めるまで選ばせるか、嫌でも勝手に決めることを強い気持ちでやることが増えた。もちろん、選ばせてパニックになりそうなときはやらないけれど。

 私が選択肢や選ばせる時に見ているのは、〈選ぶという行為〉もそうだけれどその先にある、ふざけていっているのか、本当なのかということなんだと思う。

 『僕が自閉語を話すわけ』に「アホのふりをしているとなんとでも許してもらえるので、アホは楽なんです。」という記述があったように、ふざけているのか、本当に選べないのか…選択肢を出した時、自分自身がこの部分を見極められるかを自分が自分自身を試しているのかもしれない。

 

 それで、結局どのあたりが本の感想になったのか・・・というところだが、本を読んで自分の考え方、気持ちの持ち方が少しずつ変わってきたと思う。選択肢・選ばせるということ、自閉症ではなくこの子とどう付き合うか・・・とかそういう部分。

 私自身はまだまだだけれども、自戒を込めてもう少し、先人が大切にしてこられた信念や思想に触れて学ぼうと思う。

 

 うまくまとめられなかったのでおしまい。

 

 

自閉症とは

自閉症とは

 

 

 

実践 自閉を砕く―脳機能の統合訓練と人格教育をめざして (障害児教育指導技術双書)

実践 自閉を砕く―脳機能の統合訓練と人格教育をめざして (障害児教育指導技術双書)

 

 

 

僕と自閉症

僕と自閉症

 

 

 

僕が自閉語を話すわけ

僕が自閉語を話すわけ

 

 

教師教育を語り合う会に参加して

 一昨日は、桐朋学園での研修会に参加した。

 

 町支さんのレゴワークというものがどういうものなのか、とても楽しみだった。

 

レゴワーク

 レゴワークは作ることで言葉の表出を助ける働きがあった。学生時代に、箱庭療法を学んだが、それに近い感じがした。町支さん自身もそう語っていた。作ったあとは、グループで説明する活動に入った。レゴ作品があることで、指を指して話す対象になり話題・会話が広がる。この指をさして話せるものがあることは実は重要で、グラフィックに繋がる部分があると私は思う。また、言葉にして外に出すことで、自身の思考が整理されて行く過程を実体験できた。そして、グループで対話することが自分と異なる他者の視点を得られるというポイントだった。人と関わることを大切に考えている自分だからこそ、この他社から得られる視点にキーが合ったことはとても腑に落ちた。

 

 レゴワークは、作ることから始まる。やってみて強く感じたことは、作る過程でも自分の思考がたくさん引き出されたこと。創作、というカテゴリは私にとってこのような働きがあることを再確認出来た。

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 対談のフィッシュボウルの時間はグラフィックを描かせてもらった。グラフィックが「プロッキーが常用」というお決まりを崩してほしいということで筆ペンで描いた。これが決まりということではなく、道具は自分で選べるという崩しがあったようで、参加者は喜んでみていたし、たくさん質問してくださった。参加者だけでなく、講師の方々も大満足だったようだ。私自身も、グラフィックからのリフレクションの時間を担当させていただいたが、良かった部分も、課題も明確に得られた。これで次回に繋げられる。

 

 知らない方々が多い中で、よくよく考えると日本の教育の最先端の方々が携わる会にスタッフとして参加できたこと、またその方々と綿密にお話ができたことが私自身の一番の学びだった。いつも思うのは、結果はすぐに見えない。つながりもいつどこで何年後に仕事、学びに大きくつなが来るのか自分の転機に繋がるのかはわからない。けれどもこうしてまた人とつながりを持てたことが自分自身、大いにうれしかった。

 

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 余談だけれども、早速昨日の授業でレゴワークを取り入れた。いいと思ったらすぐやってみる。この考えは変わらない。町支さんにも、報告させていただいた。

 子どもは作るということが大好きで、なんだか内言をぶつぶつつぶやく子が多数。子どもも指を指して自分の作った抽象的な作品の説明をしていた。

 私自身のレゴワークに取り組む課題は、自由度が高いと、迷う子がいてどのように支援していくかを考えていけたらいいと感じた。

 

芸術にはまる日々

連休が終わる。

カレンダー通りの連休なので、9連級でもなく、ゴールデンウィーク前半などということばは馴染みがなかった。けれども、あえて云うならば、ゴールデンウィーク前半から後半にかけて芸術にはまる日々だった、、、と、思う。

 

美術館もいくつか渡り歩いた。5つほどいったかな。

音楽にも触れた。本物に勝るものなし、と、いつも思う。

 

自己解釈で合理化もいいところなのだが、草間彌生展なんかはひとつのことにのめり込むひたむきさとか、自分の生き方について深く対話しながら見る時間だったし、歌川国芳展は好きなものを大切にしながら、発信する大切さとか改めて考えたし、写真展からは、そのものの良さを取り繕わずそのまま見る大切さ・ありのままでいる大切さ、大切なことは遠くに行かなくても本当は近くにあるということも学んだ。

そんなメッセージを受け取った気がする。

 

美術というのは、自分の深層心理に焦点を嫌でも当ててきて、それで自分の向き合えない部分と対話するきっかけをくれるものだと、私は思っている。

喧騒の日々に自分を見失いがちだけれども、そんな自分を手放さず、繋ぎ止めてくれるのは私にとって美術なんだと思う。

 

小さい頃から毎日絵を描いていたけれど、言葉にできないものは絵にしていたことをぼんやり思い出した。

絵とは、私にとって昔からそういうものだということも、思い出してくれた。

一箇所じゃなく、GWという長い休みの中で様々な芸術に触れることができたからこそ、その連続性から見えた心理があった。

 

自分をなくしてしまいそうなときは、美術に触れよう。

 

 

 

kusama2017.jp

 

歌川国芳 21世紀の絵画力 東京都府中市ホームページ

 

 

今週のお題ゴールデンウィーク2017」

 

 

片付けは自己との対話

一昨日から、クローゼットの片付けを始めた。衣替えも始めた。

カレンダーを見ると、来月の〈衣替え〉という時期にきっかりできる自信がなく、ゆったり過ごせている今のほうがいいと思いやった。

 

それとともに、クーゼットその2も思い切って片付けた。

溜め込んだ古い教育新聞、大量の紙袋、、、、などなど出てくる。

全て纏めた。

 

ひとつ決断するとスイスイできるもので、台所も全部ひっくり返して片付けた。

溜め込んだビニール袋。

こう見ると溜め込んでばかりである。(失笑)

ひとつうまくいくと、線が切れたかのようにどんどん捨てられた。捨てまくる。

 

片付け・掃除は黙々とする作業で、自分との対話になる。

溜め込んでいたものと対比するかのように溜め込んでいた自分の気持と対話できた気がする。片付けとか、掃除は苦しい気持ちも、悲しい気持ちも忘れられると昨日は思った。

なんとなく昨日つぶやいたことを思い出すと、忘れていたのではなく、片付けとか掃除という作業を通して黙々とやることで、自分の気持ちも整理していたんだと思う。

 

掃除機も掛けて床拭きもできたし、ゴミ箱も洗ったし、洗濯機も朝から2回回して布団を洗い干した。

生産的な時間だった。

一番無視していた自分の気持ちも少し整理ができた。

月に一度は、こういう時間を大切に取らないと自分はダメになると思ったので、早速来月のカレンダーに書き込もうと思う。

 

 

余談だけれども、一昨日の記事に書いたメールを読み返して、すぐに森信三氏の本を買ったら、即届いた。掃除の合間に読んだけど、すごく面白い…というか、こういうことを言語化できる人たちは尊敬するという気持ちでいっぱいになった。

 

連休ももうわずか。少しずつ現実に戻ろう。

 

 

 

ほんの読み方

今朝はメールの整理をした。

そこで、以前杉渕先生からいただいたメールが出てきて読み返した。

お会いした時に、1980年代の教育本の話になり、メルマガで記事にしてくださった。

杉渕先生がどのように本を読み渡り歩いたのかが書かれている。

《たまに読み返しておく必要がある。》と自分に言い聞かせておく内容だ。

 

本の読み方は人それぞれだ。いまでも、自分にあった読み方を模索している。

声に出して読む、付箋をつける、大事なところをノートに書き写してみる、パソコンに打ち込む…たくさん読んでも私の場合、そう情報が残らないのが残念だ。

ただ、声に出して読むのは効果覿面。だけど、労力と時間がかかる。

なので、模索中だ。

 

過去の本が良いと思うのは、今の教育書が全てと思っていた自分の価値観をきれいに崩されたからだ。

過去が今の時代につながっている。

過去があるから、今がある。

過去を学ぶことはいまを学ぶことにつながっている。

 

 

杉渕先生はこういう。

「本は、読み手の力量でしか読めない。
 実力がないと、本当の価値はわからない。
 基本的な本を決め、毎年1回は読んでほしい。
 目に飛び込んでくるところが、変わってくるはずだ。」

 

昔の本を読むと自分の知識、情報量の不足さを突きつけられる。

自分の力量にあった範囲でしか理解できない。だから、知識が必要なのだ。

自分の基本的な本はまだ見つけられていない。けれども、たくさん読むことで出会えるのではと思っている。だから、今年はひたすら読みたいと思う。

 

いまは、どちらかと言うと、昔の本ばかり漁っている。

ひとつのことにはまると抜けられなくなるのだが、最近出された本をなかなか読む気にはあまりなれない。

たぶん、理由は、付き合っている子ども達から「小手先の技術だけで動かそうとか思うな」みたいな無言のメッセージを毎日言われているような気がしてならない。

 

どんな本を読むかは、人それぞれだけれども、しばらくはこんな感じなのである。

 

archives.mag2.com

月初めに考えていること

この二日間はどうもモチベーションが上がらない。

そういう日があってもいい、と思っているし子どももそういう状態だったりする。

一年先のことはわからないことが多い、まして、一ヶ月先でも考えが変わることだってある。月初めのこの日に、5月スタートで考えていることを書き出してみる。

 

○課題読書3冊

年間50冊読もうと決めている。そのために、最低でも3冊はノルマにしている。計算が合わないと言われそうだが、足りない分は長期休暇で補うつもり。

今月も読みたい本(前半)は決定済み。詳細は、手帳に記すとする。

 

○授業記録

終わったあとに、欠かさずその日のうちに「やったこと」と「成果・課題」を残す。通常学級と違い、2時間終わるとまた次の新しい子どもたちが来て、学習が切り替わるので、負担にならない程度に未来の自分がより良い授業を提供できるバトンが渡せる程度に書く。こちら、継続できている。

 

○日記

日々の業務に疲れ果てて毎日五分が続かない。4月を過ごしてみて課題かな、と思う。意図的に続けられるよう、ルーティン化をはかるつもりで挑む5月。

 

○その他

・部屋の壁のホワイトボードをもう少し、活用できる方法を連休中考え、実践する。

・個人通信を計画的に出す。

 

こんな感じが今、自分の考えていることだと思う。

かけない部分や、振り返りは、手帳にする。公開する部分塗装でない部分の線引をしっかりする。書くことをやめない。続ける。

 

昨日はいい番組を見た。

「自信を持つこと」、「自分を守れるのは結局、自分だけ」というキーワードを受け取る。いまより少し、自信をもって傲慢にならない程度に生活できる5月にしていこう。

 

 

記録を残すこと

《記録》という言葉に3月から強く関心がある。

 読書記録、授業記録、スケジュール、日記、ブログ・・・毎日、意識的にしていなくても記録と過ごしている。

 先日、長期派遣で大学院に行っている同世代の地方の友人と読書記録について話しした。記録をしないとたくさん読めるけれども、記録をしないと読みっぱなしになってしまう。ということだった。

 読書をしていて、引っかかる部分、立ち戻ることがありそうな部分は付箋を貼っている。付箋を付けて、あとでデータに残す。手書きにチャレンジしたこともあったけれども、効率が悪い。(でも、記憶には割と残る。)

 自分に合った読書記録は、どういうタイプなのか、まだ模索中なのだ。授業記録も、実践の記録も。時間がないというのは言い訳を作る逃げ道だから、この5月は、特に《記録に残す》ことに焦点化して、もう少し具体的に意図的に生活してみる。

 記録に関わる研究会も参加予定だ。予定を今月も詰め込みすぎてしまうほど詰め込んでしまった。何かないと。じっとしていられないのだ。とどまることはできないタチだけれど、一つのことをしっかり考えられる5月を過ごしたい。

歳を重ねるということ

少し前まで、若いままがいいと思っていた時期があった。

最近は、早く歳を重ねたいとも思う。

人生の先輩たちが歳を重ねたほうが面白いというのはそういうことだろう。

 

本日、またひとつ歳を重ねました。

歳を重ねていいなと思うことは、考える幅の広がり、余裕が少しずつ増えてきたこと。

考えることが増えたこと、歳の分だけ人脈が広がって悩みを考えてくれる人が増えたということ。

ありがたいなあ!

 

もんもんと考え続けドツボにはまる日もあるけれど、

前向きに、毎日少しだけ自分のできる範囲で歩んでく。

味のある大人を目出します。笑

 

また一年、よろしくお願いします〜

 

結局は人なのだ

大学の実習の時から、「専門は何?」と聞かれてきた。

はじめて聞かれたときはなんのことだかわからなかった。

2年前くらいに、そろそろ自分の専門を決めたほうがいいと言われたが、いまは全然その気がない。関心がないのだ。

様々な学び方があっていいと思う。

が、私はいまの立ち位置で仕事をしているといつも考えてしまうことがある。

どんなに素晴らしい技量や教育技術があっても、相手は人だということは忘れてはいけない。人相手に、手法や小手先の技術で人を動かすと痛い目を見る。

 

専門性はあったほうがいいと思う。

専門性がある人が羨ましいと思う。

 

しかし、結局、教師と言う前に、人間なのだということを自戒を込めて思う。

自分の性格、プライド、人としてのあり方、、知識や専門性の前にそこが大事なのだといまの私は思ってしまう。

 

私自身が人としてのあり方を考え続けたい。

それで、人に関わる未来の仕事がしたい。

 

そういうことを、他人の授業を見て考えてしまった今週だった。