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書いて頭の中を整理する、自己満足のたのしいブログ。

自分にできることを自分の範囲で

 授業時間、廊下をウロウロしている子どもがいた。

 声をかけると授業がつまらないといっていた。こういう時、無理に教室に戻そうとは全然思わない。こういう状態が続くのは良くないけれども、この子の面白くない主訴はどこにあるのか話しながら聞く。子どもって不思議で、こちらから少しでもレールに戻そうという気持ちがあるとそういうことを読み取ってしまう。

 私は、普通に子どもの言うことに共感できることが多い、ちょっと変わった人なのかもしれない。自分も、子どもの時に学級の輪に入れなかったことがあった。

 先生とか授業とかいう「形式に囚われすぎてそれを盾にしていること」が本当は嫌いなんだと思う。

 

 昨日はもう一件、「学校がつまらない」というこの話を丁寧に聞いた。前担当が聞けば素直に話したのかもしれないけれど、自分と話した時に理由を聞いても困ったことがないか聞いても「わからない」という。それはそれでいいんだと思う。いま見えている姿が、彼らのありのままで、「わからない」としか話せないのはなぜかということを考えること、なぜこの状況になっているのかということを考えることのほうが大事だ。

 

 私が話す前に決めたゴールに無理やりいかなくても、この状況をまず捉えることが大事なんだと思う。

 私には私にしかできないこともあるし、自分にできる範囲も限られている。無理にこれ以上のことをやろうとすると、自分自身が苦しくなる。どうしてできないんだとか、子どもを乗せようとすると子どもとの関係が悪くなる。

 「自分にできることを自分にできる範囲でやればいい」とあの子達が昨日も教えてくれた。だから、子どもと関わる時間が苦しくも一番楽しいと考えているんだと思う。

【朝読み*32日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《こうした目標を実現するのに邪魔になる行為》、《創造性・自主性》の章を読んだ。

 

「受容」という言葉にこだわっていた片倉先生の話。言葉にこだわるということに最近惹かれている。こだわることは常に意識し続け持ち続けなければならないことだ。こだわることで繋がったり、生まれたりすることがある。

 

 そして、社会の視線を気にすることで出来なくなってしまう教育の本質について書かれていて、胸に突き刺さるような内容だった。ここの部分、あと十回くらいは読まないといけないんじゃないかな。。。

 本当の指導力とは何か・・・を考える箇所だった。

【朝読み*32日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《こうした目標を実現するのに邪魔になる行為》、《創造性?自主性》の章を読んだ。

 

「受容」という言葉にこだわっていた片倉先生の話。言葉にこだわるということに最近惹かれている。こだわることは常に意識し続け持ち続けなければならないことだ。こだわることで繋がったり、生まれたりすることがある。

 

 そして、社会の視線を気にすることで出来なくなってしまう教育の本質について書かれていて、胸に突き刺さるような内容だった。ここの部分、あと十回くらいは読まないといけないんじゃないかな。。。

 本当の指導力とは何か・・・を考える箇所だった。

分かるは使えるか

 発達特性が強い子(本当はどの子にも必要なわけで、これと言って"発達障害"と言いたくないけれど)には、言語化する、説明することに困難を要する場合が多い。説明できないことで、教師の前で不利になったり理不尽なことを言われてしまう。そういう訴えを子ども自身から聞き、よく相談が来る。

 こういうことを見ていると、話をしてわかり合うことが大事とか、分かるということは相手に説明ができてはじめて自分の知識になるということを知識ではなく体験として、子どもが教えてくれる。私にとって子どもはいつも教師だ。

 

 昨日は、説明するという課題に取り組んでみた。私が教室に入り座るところまでをジャスチャーし、それを説明する。簡潔にできたら、それをもっと詳しく言ってもらう。語彙が少なかったり、独特の表現の仕方が出てくる場合はこちらが訂正し、教える。どこかの研修会で、作文を書かせる時にやらせるという話を聞いて、それを言葉で説明することに変えたものを続けている。

 

 昨年、グループでゲームをした時に、審判がよく見ていなかったからとか、今は自分が点数を取れたはずなのにとどうも自分に都合の良い言い訳…この子は必死なのだろうが、はたから見るとそれは言い訳にしか聞こえない、世界が共有できないことがよく起こる。それで、「じゃあ、どうしたら得点がもらえるか説明して」と聞くと説明ができない。理解してないのだ。

 それで、モデルを示して、この場合は?得点になる?ならない?という状況を何パターンかした後に、どして得点になったのか聞くと、ようやく説明ができて、理解ができた。それで、やっと「わかる」ということになる。

 

 大人でも一緒だ。私も知識の詰め込みだけではなく、どこかで何かの環境、ツールでアウトプットが必要なのだと思う。ここもアウトプットだけど。そんなことをいつも考えている。

【朝読み*31日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《衝動のコントロール》、《ねかせ》、《教材使用上の注意》、《プログラムが順調に進んでいるか否かのチェックポイント》の章を読んだ。

 

片倉先生の本を読んでいて、自分の決められなかった部分を強く意識するようになった。自分の決められなかった部分というのは、善悪の判断とか、衝動のコントロールの部分だ。それはもちろん、怪我や身体に関わることの領域になれば自分自身、判断はできる。そういうことではなく限りなくグレーで子どもが苦しくてできないとか、苦しくてどうにもならずに出してしまう言葉とかそういう部分をどう私が判断して善悪をつけていいのかという、心の葛藤のような部分にいつも迷っている。どうしたらいいのか、子どもと向き合い時、強かれ弱かれこの心理的葛藤の壁にぶつかる。

 

そういうときの一つの判断みたいな、背中を押してもらえるようなことが片倉先生の本にはちょこちょこと、網羅的に出てきていて、そういう部分に勇気がもらえる。

今日の読みの私的キーワードは『衝動をコントロールできるか、否かが社会生活を可能にするか否かのひとつの分かれ目であると考える』だった。

私が発信し続ける意味

 ここ最近、過去の歴史から学びたくて片倉信夫先生のご著書を一連の年代順に読んでいた。先日、本を読んでいて涙が溢れ止まらなくなり、声に出して泣いてしまった本が読了し、書評を書かずにいられなくなり猛烈に勢いと感情をぶつけるように書いた。

 すると、懇意にしていただいているある特別支援教育のエキスパートの方から、この片倉先生の実践に関わる方の紹介をしていただいた。これはむちゃくちゃうれしかった。そいういこと抜きにして、自閉症を過去からどう捉え今につなげて考えていくかという思考の歴史と言うようなことを学びたかったのだけれども、見てくれている人はいるんだと思うとうれしかった。

 

このブログでも、私は発信し続けることの大切さを以前書いた。

 

108meguru.hateblo.jp

どこの誰に届くのかはわからないが、発信し続けることで今回のように誰かからバトンをもらいその人に繋がることができる。以前書いたときは、苫野一徳さんの講演会で発表した当時高校生の方から、発信力の大切さに刺激を受け、私自身が何のために発信するのか、発信し続ける意味や意思を今でも強くもっている。

 

 今回の流れはまさに、それだったのだ。

 私は、発信することを諦めない。

 発信するために、一歩一歩自分を自分なりのペースで歩んでいく。

 そう強く思えた出来事だった。

授業づくりネットワーク成蹊大学に参加して

昨日は、授業づくりネットワークの集会だった。

『インクルーシブ』ということでどんな内容なのか、ということ、講師の方々がどういう話をするのか、ということに感心を持って参加した。

 

私自身が一番強く関心をもったのは鼎談での記録の話だった。

エピソードの記録に始まり、授業記録のとり方、質・・・記録ひとつとっても様々なやり方がある。

阿部先生の言う時代にあったような記録とはどういうものなのだろうと考えて聞いていた。

夏に授業記録の学習会を行い、グラフィック✕リフレクションの研修会を考えている私にとってピンポイントな話題だっただけに、猛烈に刺激を受けた話だった。過去の授業記録にまずは当たろうと強く決めたきっかけになった。過去から学んでいまに到達する、ということを少ししてみようと思い、昨日話題に上がった記録に関わる本を購入した。

 

と、いうのが一点。もう1つは『学習者側にたった記録』について。

特別支援の学級で仕事をするようになってから、毎日所見のようなものを書き担任、保護者とその日のことを共有するための記録書いている。毎日書いているのだ。

はじめは何をどう書けばいいかわからなかったが、決められた分量で伝わりやすく書くには一つのエピソードを切り取って書くことにしている。朝から帰りまで書いたのでは伝わりにくい。ただ、そのエピソードも前後関係をうまく書かないと伝わらない。どの言葉を取捨選択していくかもポイントになる。

その一人の記録を書き続けているが、昨日の話を聞いて今まで書いたものを一つのデータに整理して並べるともしかしたらなにかが見えてくるのかもしれないと思ったので合間を縫ってやってみようと思う。

2年、3年続けて持たせてもらっている子がいるので子どもによっては3年間の記録となる。縦断的な記録となるのかもしれない。

研究とか、記録とかとは別に、私自身がその子との関わりの中で気づかなかったことが記録から見えてくるかもしれない、その一点だ。自己の研究にしようということではなく、記録をしていて見えるものがあれば、支援の次につなげたいというそういう思いだ。

 

自身の授業も、支援も声掛けもやったらやりっぱなし流れっぱなしのままである。

残すことで過去の自分から先の実践へ繋げられるよう、まずは形に拘らず「残す」ことを続けたい。

ブロクを書いているのもそういう一心なのだ。

(整理しやすいし、記事も見つけやすいし。)

 

エリック・カール展

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昨日から始まったエリック・カール展に昨日は初日参戦。

その前にお話が聞きたくて、昨日は特別支援のプロと会ってもらった。

今年も何人かの担当をもっているのだけれど、その中でも自分の中で頑張って向き合わなきゃいけないだろうなと思っている場面緘黙 (っぽい子)と LDの子。

特に、昨日は、前者の方について聞きたくて、前からお願いして昨日会ってもらった。

話をしたら、全部わかるわけではないけれど、こんな感じなんですというと、的確に当てはまりそうな話をしてくださった。

しかも、「それって場面緘黙じゃないかもしれないし」と言い切らないところがプロだと思った。障害を確固とするのではなく、状態を聞き個々の事象から考えていく。私の「かもしれない」傾向の話で障害を決めない。そういう考え方の大切さにもはっとする。こういうことがあるかもしれない、これもあるかもしれない・・・とか、様々な引き出しと可能性が聞けた。

この方がどういうスタンスで現場で働いているのかも聞たことも良かった。

ありがとうございました!

 

自分で考えてもわからないことは、餅は餅屋で聞く。それで次に繋げられる。

学校では一人で考えなさいという時間もあるけれど、発達特性のある子どもは、何をどうやって聞けばいいのかもわからない時がある。考えるプロセスにも、段階がある。聞けるというスキルは、最大の武器なのかもしれない。そう思った。

 

エリック・カール展は素晴らしかった。

初日なのに人はごった返してなくてゆっくり見られた。

絵本で印刷されるとわからなかった絵のでこぼこや、絵の具のかすれ、切絵の重なりがとても繊細でこういう作品の作り方もあるんだ・・・と参考になった。

『ホンモノを見る』ということは、やっぱり揺るがない大切なことなのだと思う。

 

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行き交う人々もまた旅人なり

離任式と歓送迎会。

この勤務体制になってから、もう二年間も離任式には参加できなくなった。

夜の会では、出て行かれた人、新しく来た人を交え、美味しいお酒を飲み、食事をした。

歓談の中でも思い出話などに花が咲く。

お世話になった方、深く関わった方が手紙を読み、花を渡す。

 

ある人と話したときのエピソードが引っかかっていたようで、こういう時に想起される。

『学校というのは時期や季節があるから美しい。有難く仕事ができる。』これは、以前トップが言っていた言葉だ。そのことにも関わるのだけれど、その私の云うある人とのエピソードとは、『学校とは、時期があるから過去の失敗も難しい感情もその時期や季節によって美しく流されたり、思い出にしてしまう。学校とは異質な場所。』というのは随分自分の解釈が入ってしまうが、取りまとめるとそういうことを言っている。

 

保護者、同僚、子どもとの関係も、卒業や行事の時期に上手に丸められ切り取られていく。感情と事実がごっちゃになる。

例えば、あの時確かに難しいことや感情的にぶつかることがあっても、離任という事象を契機に「すっかりきれいな思い出になってしまう」。「卒業」を契機に過去の子どもに対する申し訳なかったという事実も葬られてしまう。といったような具合。

 

「卒業を契機に」は、私のことだろう。

ずうっと前に保護者に言われた言葉が忘れられなかったが、卒業式のにその保護者に御礼を言われた。私は喜べなかった。この保護者に以前言われたことは正しくて、自分の至らなさがそこにはあったのだけれど、この御礼を言われたことで忘れてはいけないとつなぎとめておいた感情を忘れる訳にはいかない。そういう思いから、素直に心の底から喜べなかった。

 

そういう時期的なマジックにかかり、自分の至らなさ、力の無さで犯した事実を流してはいけない。私の場合だけれど、そう思ってこれからを過ごそうとすずっと考えている。

 

けれど、半分、そういう時期的なものに喜びを感じて過ごすことも必要だとも思う。

自分が抜け出せず前に進めずにいるなら、時期的マジックにかかってもいいのじゃないかと思う。

 

物事には全て裏表がある。

今日書いた話も、実は両輪だと思っている。

片方が大きくなれば、私自身が崩壊するに違いない。

ただ、どちらがどれだけの割合を占めるかの決定権は自分にある。

そういう感情をつなぎとめておくことで、実践や自分の未来に明るくなることもある。つなぎとめておくことで、次に進めないのなら、多少手放していくしか無い。

 

今の自分は、、、というと、つなぎとめておく覚悟の割合のほうが多い。

バランスとは五分五分のことを云うのではない。これがいまの私のバランスなのだ。

 

今日は備忘録。

また振り返って読んでおきたい記事、自分のために書いた。