WEDGE

書いて頭の中を整理する、自己満足のたのしいブログ。

記録を残すこと

《記録》という言葉に3月から強く関心がある。

 読書記録、授業記録、スケジュール、日記、ブログ・・・毎日、意識的にしていなくても記録と過ごしている。

 先日、長期派遣で大学院に行っている同世代の地方の友人と読書記録について話しした。記録をしないとたくさん読めるけれども、記録をしないと読みっぱなしになってしまう。ということだった。

 読書をしていて、引っかかる部分、立ち戻ることがありそうな部分は付箋を貼っている。付箋を付けて、あとでデータに残す。手書きにチャレンジしたこともあったけれども、効率が悪い。(でも、記憶には割と残る。)

 自分に合った読書記録は、どういうタイプなのか、まだ模索中なのだ。授業記録も、実践の記録も。時間がないというのは言い訳を作る逃げ道だから、この5月は、特に《記録に残す》ことに焦点化して、もう少し具体的に意図的に生活してみる。

 記録に関わる研究会も参加予定だ。予定を今月も詰め込みすぎてしまうほど詰め込んでしまった。何かないと。じっとしていられないのだ。とどまることはできないタチだけれど、一つのことをしっかり考えられる5月を過ごしたい。

歳を重ねるということ

少し前まで、若いままがいいと思っていた時期があった。

最近は、早く歳を重ねたいとも思う。

人生の先輩たちが歳を重ねたほうが面白いというのはそういうことだろう。

 

本日、またひとつ歳を重ねました。

歳を重ねていいなと思うことは、考える幅の広がり、余裕が少しずつ増えてきたこと。

考えることが増えたこと、歳の分だけ人脈が広がって悩みを考えてくれる人が増えたということ。

ありがたいなあ!

 

もんもんと考え続けドツボにはまる日もあるけれど、

前向きに、毎日少しだけ自分のできる範囲で歩んでく。

味のある大人を目出します。笑

 

また一年、よろしくお願いします〜

 

結局は人なのだ

大学の実習の時から、「専門は何?」と聞かれてきた。

はじめて聞かれたときはなんのことだかわからなかった。

2年前くらいに、そろそろ自分の専門を決めたほうがいいと言われたが、いまは全然その気がない。関心がないのだ。

様々な学び方があっていいと思う。

が、私はいまの立ち位置で仕事をしているといつも考えてしまうことがある。

どんなに素晴らしい技量や教育技術があっても、相手は人だということは忘れてはいけない。人相手に、手法や小手先の技術で人を動かすと痛い目を見る。

 

専門性はあったほうがいいと思う。

専門性がある人が羨ましいと思う。

 

しかし、結局、教師と言う前に、人間なのだということを自戒を込めて思う。

自分の性格、プライド、人としてのあり方、、知識や専門性の前にそこが大事なのだといまの私は思ってしまう。

 

私自身が人としてのあり方を考え続けたい。

それで、人に関わる未来の仕事がしたい。

 

そういうことを、他人の授業を見て考えてしまった今週だった。

 

自分にできることを自分の範囲で

 授業時間、廊下をウロウロしている子どもがいた。

 声をかけると授業がつまらないといっていた。こういう時、無理に教室に戻そうとは全然思わない。こういう状態が続くのは良くないけれども、この子の面白くない主訴はどこにあるのか話しながら聞く。子どもって不思議で、こちらから少しでもレールに戻そうという気持ちがあるとそういうことを読み取ってしまう。

 私は、普通に子どもの言うことに共感できることが多い、ちょっと変わった人なのかもしれない。自分も、子どもの時に学級の輪に入れなかったことがあった。

 先生とか授業とかいう「形式に囚われすぎてそれを盾にしていること」が本当は嫌いなんだと思う。

 

 昨日はもう一件、「学校がつまらない」というこの話を丁寧に聞いた。前担当が聞けば素直に話したのかもしれないけれど、自分と話した時に理由を聞いても困ったことがないか聞いても「わからない」という。それはそれでいいんだと思う。いま見えている姿が、彼らのありのままで、「わからない」としか話せないのはなぜかということを考えること、なぜこの状況になっているのかということを考えることのほうが大事だ。

 

 私が話す前に決めたゴールに無理やりいかなくても、この状況をまず捉えることが大事なんだと思う。

 私には私にしかできないこともあるし、自分にできる範囲も限られている。無理にこれ以上のことをやろうとすると、自分自身が苦しくなる。どうしてできないんだとか、子どもを乗せようとすると子どもとの関係が悪くなる。

 「自分にできることを自分にできる範囲でやればいい」とあの子達が昨日も教えてくれた。だから、子どもと関わる時間が苦しくも一番楽しいと考えているんだと思う。

【朝読み*32日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《こうした目標を実現するのに邪魔になる行為》、《創造性・自主性》の章を読んだ。

 

「受容」という言葉にこだわっていた片倉先生の話。言葉にこだわるということに最近惹かれている。こだわることは常に意識し続け持ち続けなければならないことだ。こだわることで繋がったり、生まれたりすることがある。

 

 そして、社会の視線を気にすることで出来なくなってしまう教育の本質について書かれていて、胸に突き刺さるような内容だった。ここの部分、あと十回くらいは読まないといけないんじゃないかな。。。

 本当の指導力とは何か・・・を考える箇所だった。

【朝読み*32日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《こうした目標を実現するのに邪魔になる行為》、《創造性?自主性》の章を読んだ。

 

「受容」という言葉にこだわっていた片倉先生の話。言葉にこだわるということに最近惹かれている。こだわることは常に意識し続け持ち続けなければならないことだ。こだわることで繋がったり、生まれたりすることがある。

 

 そして、社会の視線を気にすることで出来なくなってしまう教育の本質について書かれていて、胸に突き刺さるような内容だった。ここの部分、あと十回くらいは読まないといけないんじゃないかな。。。

 本当の指導力とは何か・・・を考える箇所だった。

分かるは使えるか

 発達特性が強い子(本当はどの子にも必要なわけで、これと言って"発達障害"と言いたくないけれど)には、言語化する、説明することに困難を要する場合が多い。説明できないことで、教師の前で不利になったり理不尽なことを言われてしまう。そういう訴えを子ども自身から聞き、よく相談が来る。

 こういうことを見ていると、話をしてわかり合うことが大事とか、分かるということは相手に説明ができてはじめて自分の知識になるということを知識ではなく体験として、子どもが教えてくれる。私にとって子どもはいつも教師だ。

 

 昨日は、説明するという課題に取り組んでみた。私が教室に入り座るところまでをジャスチャーし、それを説明する。簡潔にできたら、それをもっと詳しく言ってもらう。語彙が少なかったり、独特の表現の仕方が出てくる場合はこちらが訂正し、教える。どこかの研修会で、作文を書かせる時にやらせるという話を聞いて、それを言葉で説明することに変えたものを続けている。

 

 昨年、グループでゲームをした時に、審判がよく見ていなかったからとか、今は自分が点数を取れたはずなのにとどうも自分に都合の良い言い訳…この子は必死なのだろうが、はたから見るとそれは言い訳にしか聞こえない、世界が共有できないことがよく起こる。それで、「じゃあ、どうしたら得点がもらえるか説明して」と聞くと説明ができない。理解してないのだ。

 それで、モデルを示して、この場合は?得点になる?ならない?という状況を何パターンかした後に、どして得点になったのか聞くと、ようやく説明ができて、理解ができた。それで、やっと「わかる」ということになる。

 

 大人でも一緒だ。私も知識の詰め込みだけではなく、どこかで何かの環境、ツールでアウトプットが必要なのだと思う。ここもアウトプットだけど。そんなことをいつも考えている。

【朝読み*31日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】

片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《衝動のコントロール》、《ねかせ》、《教材使用上の注意》、《プログラムが順調に進んでいるか否かのチェックポイント》の章を読んだ。

 

片倉先生の本を読んでいて、自分の決められなかった部分を強く意識するようになった。自分の決められなかった部分というのは、善悪の判断とか、衝動のコントロールの部分だ。それはもちろん、怪我や身体に関わることの領域になれば自分自身、判断はできる。そういうことではなく限りなくグレーで子どもが苦しくてできないとか、苦しくてどうにもならずに出してしまう言葉とかそういう部分をどう私が判断して善悪をつけていいのかという、心の葛藤のような部分にいつも迷っている。どうしたらいいのか、子どもと向き合い時、強かれ弱かれこの心理的葛藤の壁にぶつかる。

 

そういうときの一つの判断みたいな、背中を押してもらえるようなことが片倉先生の本にはちょこちょこと、網羅的に出てきていて、そういう部分に勇気がもらえる。

今日の読みの私的キーワードは『衝動をコントロールできるか、否かが社会生活を可能にするか否かのひとつの分かれ目であると考える』だった。

私が発信し続ける意味

 ここ最近、過去の歴史から学びたくて片倉信夫先生のご著書を一連の年代順に読んでいた。先日、本を読んでいて涙が溢れ止まらなくなり、声に出して泣いてしまった本が読了し、書評を書かずにいられなくなり猛烈に勢いと感情をぶつけるように書いた。

 すると、懇意にしていただいているある特別支援教育のエキスパートの方から、この片倉先生の実践に関わる方の紹介をしていただいた。これはむちゃくちゃうれしかった。そいういこと抜きにして、自閉症を過去からどう捉え今につなげて考えていくかという思考の歴史と言うようなことを学びたかったのだけれども、見てくれている人はいるんだと思うとうれしかった。

 

このブログでも、私は発信し続けることの大切さを以前書いた。

 

108meguru.hateblo.jp

どこの誰に届くのかはわからないが、発信し続けることで今回のように誰かからバトンをもらいその人に繋がることができる。以前書いたときは、苫野一徳さんの講演会で発表した当時高校生の方から、発信力の大切さに刺激を受け、私自身が何のために発信するのか、発信し続ける意味や意思を今でも強くもっている。

 

 今回の流れはまさに、それだったのだ。

 私は、発信することを諦めない。

 発信するために、一歩一歩自分を自分なりのペースで歩んでいく。

 そう強く思えた出来事だった。