【朝読み*31日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】
片倉信夫氏 【僕が自閉語を話すわけ】『第一章 必死で学ぼうとする姿勢をつくる 第一段階の教育の略記』《衝動のコントロール》、《ねかせ》、《教材使用上の注意》、《プログラムが順調に進んでいるか否かのチェックポイント》の章を読んだ。
片倉先生の本を読んでいて、自分の決められなかった部分を強く意識するようになった。自分の決められなかった部分というのは、善悪の判断とか、衝動のコントロールの部分だ。それはもちろん、怪我や身体に関わることの領域になれば自分自身、判断はできる。そういうことではなく限りなくグレーで子どもが苦しくてできないとか、苦しくてどうにもならずに出してしまう言葉とかそういう部分をどう私が判断して善悪をつけていいのかという、心の葛藤のような部分にいつも迷っている。どうしたらいいのか、子どもと向き合い時、強かれ弱かれこの心理的葛藤の壁にぶつかる。
そういうときの一つの判断みたいな、背中を押してもらえるようなことが片倉先生の本にはちょこちょこと、網羅的に出てきていて、そういう部分に勇気がもらえる。
今日の読みの私的キーワードは『衝動をコントロールできるか、否かが社会生活を可能にするか否かのひとつの分かれ目であると考える』だった。
私が発信し続ける意味
ここ最近、過去の歴史から学びたくて片倉信夫先生のご著書を一連の年代順に読んでいた。先日、本を読んでいて涙が溢れ止まらなくなり、声に出して泣いてしまった本が読了し、書評を書かずにいられなくなり猛烈に勢いと感情をぶつけるように書いた。
すると、懇意にしていただいているある特別支援教育のエキスパートの方から、この片倉先生の実践に関わる方の紹介をしていただいた。これはむちゃくちゃうれしかった。そいういこと抜きにして、自閉症を過去からどう捉え今につなげて考えていくかという思考の歴史と言うようなことを学びたかったのだけれども、見てくれている人はいるんだと思うとうれしかった。
このブログでも、私は発信し続けることの大切さを以前書いた。
どこの誰に届くのかはわからないが、発信し続けることで今回のように誰かからバトンをもらいその人に繋がることができる。以前書いたときは、苫野一徳さんの講演会で発表した当時高校生の方から、発信力の大切さに刺激を受け、私自身が何のために発信するのか、発信し続ける意味や意思を今でも強くもっている。
今回の流れはまさに、それだったのだ。
私は、発信することを諦めない。
発信するために、一歩一歩自分を自分なりのペースで歩んでいく。
そう強く思えた出来事だった。
【朝読み*30日目】 片倉信夫氏【僕が自閉語を話すわけ】
今日から読み始め。
序幕。
授業づくりネットワーク成蹊大学に参加して
昨日は、授業づくりネットワークの集会だった。
『インクルーシブ』ということでどんな内容なのか、ということ、講師の方々がどういう話をするのか、ということに感心を持って参加した。
私自身が一番強く関心をもったのは鼎談での記録の話だった。
エピソードの記録に始まり、授業記録のとり方、質・・・記録ひとつとっても様々なやり方がある。
阿部先生の言う時代にあったような記録とはどういうものなのだろうと考えて聞いていた。
夏に授業記録の学習会を行い、グラフィック✕リフレクションの研修会を考えている私にとってピンポイントな話題だっただけに、猛烈に刺激を受けた話だった。過去の授業記録にまずは当たろうと強く決めたきっかけになった。過去から学んでいまに到達する、ということを少ししてみようと思い、昨日話題に上がった記録に関わる本を購入した。
と、いうのが一点。もう1つは『学習者側にたった記録』について。
特別支援の学級で仕事をするようになってから、毎日所見のようなものを書き担任、保護者とその日のことを共有するための記録書いている。毎日書いているのだ。
はじめは何をどう書けばいいかわからなかったが、決められた分量で伝わりやすく書くには一つのエピソードを切り取って書くことにしている。朝から帰りまで書いたのでは伝わりにくい。ただ、そのエピソードも前後関係をうまく書かないと伝わらない。どの言葉を取捨選択していくかもポイントになる。
その一人の記録を書き続けているが、昨日の話を聞いて今まで書いたものを一つのデータに整理して並べるともしかしたらなにかが見えてくるのかもしれないと思ったので合間を縫ってやってみようと思う。
2年、3年続けて持たせてもらっている子がいるので子どもによっては3年間の記録となる。縦断的な記録となるのかもしれない。
研究とか、記録とかとは別に、私自身がその子との関わりの中で気づかなかったことが記録から見えてくるかもしれない、その一点だ。自己の研究にしようということではなく、記録をしていて見えるものがあれば、支援の次につなげたいというそういう思いだ。
自身の授業も、支援も声掛けもやったらやりっぱなし流れっぱなしのままである。
残すことで過去の自分から先の実践へ繋げられるよう、まずは形に拘らず「残す」ことを続けたい。
ブロクを書いているのもそういう一心なのだ。
(整理しやすいし、記事も見つけやすいし。)
エリック・カール展
昨日から始まったエリック・カール展に昨日は初日参戦。
その前にお話が聞きたくて、昨日は特別支援のプロと会ってもらった。
今年も何人かの担当をもっているのだけれど、その中でも自分の中で頑張って向き合わなきゃいけないだろうなと思っている場面緘黙 (っぽい子)と LDの子。
特に、昨日は、前者の方について聞きたくて、前からお願いして昨日会ってもらった。
話をしたら、全部わかるわけではないけれど、こんな感じなんですというと、的確に当てはまりそうな話をしてくださった。
しかも、「それって場面緘黙じゃないかもしれないし」と言い切らないところがプロだと思った。障害を確固とするのではなく、状態を聞き個々の事象から考えていく。私の「かもしれない」傾向の話で障害を決めない。そういう考え方の大切さにもはっとする。こういうことがあるかもしれない、これもあるかもしれない・・・とか、様々な引き出しと可能性が聞けた。
この方がどういうスタンスで現場で働いているのかも聞たことも良かった。
ありがとうございました!
自分で考えてもわからないことは、餅は餅屋で聞く。それで次に繋げられる。
学校では一人で考えなさいという時間もあるけれど、発達特性のある子どもは、何をどうやって聞けばいいのかもわからない時がある。考えるプロセスにも、段階がある。聞けるというスキルは、最大の武器なのかもしれない。そう思った。
エリック・カール展は素晴らしかった。
初日なのに人はごった返してなくてゆっくり見られた。
絵本で印刷されるとわからなかった絵のでこぼこや、絵の具のかすれ、切絵の重なりがとても繊細でこういう作品の作り方もあるんだ・・・と参考になった。
『ホンモノを見る』ということは、やっぱり揺るがない大切なことなのだと思う。
行き交う人々もまた旅人なり
離任式と歓送迎会。
この勤務体制になってから、もう二年間も離任式には参加できなくなった。
夜の会では、出て行かれた人、新しく来た人を交え、美味しいお酒を飲み、食事をした。
歓談の中でも思い出話などに花が咲く。
お世話になった方、深く関わった方が手紙を読み、花を渡す。
ある人と話したときのエピソードが引っかかっていたようで、こういう時に想起される。
『学校というのは時期や季節があるから美しい。有難く仕事ができる。』これは、以前トップが言っていた言葉だ。そのことにも関わるのだけれど、その私の云うある人とのエピソードとは、『学校とは、時期があるから過去の失敗も難しい感情もその時期や季節によって美しく流されたり、思い出にしてしまう。学校とは異質な場所。』というのは随分自分の解釈が入ってしまうが、取りまとめるとそういうことを言っている。
保護者、同僚、子どもとの関係も、卒業や行事の時期に上手に丸められ切り取られていく。感情と事実がごっちゃになる。
例えば、あの時確かに難しいことや感情的にぶつかることがあっても、離任という事象を契機に「すっかりきれいな思い出になってしまう」。「卒業」を契機に過去の子どもに対する申し訳なかったという事実も葬られてしまう。といったような具合。
「卒業を契機に」は、私のことだろう。
ずうっと前に保護者に言われた言葉が忘れられなかったが、卒業式のにその保護者に御礼を言われた。私は喜べなかった。この保護者に以前言われたことは正しくて、自分の至らなさがそこにはあったのだけれど、この御礼を言われたことで忘れてはいけないとつなぎとめておいた感情を忘れる訳にはいかない。そういう思いから、素直に心の底から喜べなかった。
そういう時期的なマジックにかかり、自分の至らなさ、力の無さで犯した事実を流してはいけない。私の場合だけれど、そう思ってこれからを過ごそうとすずっと考えている。
けれど、半分、そういう時期的なものに喜びを感じて過ごすことも必要だとも思う。
自分が抜け出せず前に進めずにいるなら、時期的マジックにかかってもいいのじゃないかと思う。
物事には全て裏表がある。
今日書いた話も、実は両輪だと思っている。
片方が大きくなれば、私自身が崩壊するに違いない。
ただ、どちらがどれだけの割合を占めるかの決定権は自分にある。
そういう感情をつなぎとめておくことで、実践や自分の未来に明るくなることもある。つなぎとめておくことで、次に進めないのなら、多少手放していくしか無い。
今の自分は、、、というと、つなぎとめておく覚悟の割合のほうが多い。
バランスとは五分五分のことを云うのではない。これがいまの私のバランスなのだ。
今日は備忘録。
また振り返って読んでおきたい記事、自分のために書いた。
【朝読み*29日目】 片倉信夫氏【僕と自閉症】
【朝読み*29日目】
片倉信夫氏 【僕と自閉症】『第3章 世の光をめぐって』《精神薄弱者更生施設》、《精神薄弱者の教育》の章を読んだ。
障害のある子どもの就労にかかわる著者の哲学的思い、信念のようなものに触れる。
特に、この章では【糸賀一雄 著 《この子らを世の光に》】の引用が膨大にされている。と共に、著者が影響されたということが読み取れる。これは、一度この著書にも当たる必要があると感じ、近いうちに実行したい。
この分野の領域と言うのは、言語化しにくく、どう表現し、どの言葉を選んで書いたり、話したりすればいいのだろうといつも壁に当たる。
それでも、この本はそういう壁を超えるヒントや、きっかけをいつも開くたびに思想的にも実践的にも与えてくれるものだということを今日のよみでも感じたのだった。
生産的に読書ができない日もある。それでも、一行でも読むことが先にすすめる力となる。量にこだわりがちだけれど、今は量ではなく、続けることに価値を見出したい。日々もそうあってほしいと願う。
当たり前が一番難しい
生活が戻ってきた。
普通に食事して、普通に就寝して、普通に起きる生活。
注目することは特に無いのに、この普通が一番難しい。
年明けくらいからズルズルと安眠できない日が続いた。
寝れた、と思っても、また少し経つと一時間おきに起きてしまい寝不足の生活。
最近が一番ひどくて、早く寝ることに試みても途中起きてしまったり、布団に入っても寝付けずそれが原因で体調不良や、心の疲れがひどくなっていた。
これは死活問題だ!このままでは、病気になってしまう。
去年公演を聞いた、諸富先生の話が頭の中をぐるぐる駆け回る。
ときには、プラシーボ効果…いやいや、もう外的措置が必要。
薬を飲んだら、難なく眠れた。これで、依存なんかになっては逆効果。
昨日は、何もなしで寝てみた。
一度起きたけれど、それほど不眠の感覚はなかった。
少しずつ、当たり前に眠れるという生活を取り戻して、心の安定も少しずつ戻ってきている。
少しのことで動揺し、少しのことで心折れる。
本当はもっと強くなりたいと思って、強いふりをしてもガタガタと音を立ててすぐに崩れる。
地盤が弱いのに強くなんてなれやしない。
いまは、眠れる日常を取り戻しつつある自分の生活をもう少し安定できるように付き合うこと。そうしたら、次を考えてみよう。
他者理解とは
ここ最近一番腑に落ちた話は、『他者理解とは自己理解から始まる』という話だった。
相手を知ることは、まず、自分の特性を知り、長所短所を理解していることだという話だった。
私自身、その自己理解をもっと深めるためにはその自分の長所短所、特性を言語化し、整理できるともっと理解が深まるのだろうと思う。
そもそも、なぜこの話が腑に落ちたかというと、いつも自分の指示を出しても話をしても、思い通りにもいかず周りと合わない反面教師的存在の人物を思い出したからだ。
私も、周りの人間もその人物には心労していたのだが、いつも、この人はどうしてもっと自分の特性に気が付けないのだろうと思っていることが毎日だった。
そんな感情をふと思い出した。
理解したところで、周りとの違い、ズレを受け入れられるかといえばそれはまた次の段階の話なのだと思うけれども…
そもそも、毎日通ってくる発達特性の子たちは、自分の特性を本質的に理解し、自己の長所短所を知ることで、すっと今までできなかったコミュニケーションや課題がすんなりできてしまうことがあった。詰まるところは、そういう話なのだと思う。
自分ができないこと、できること、苦手なことを知れば、次に「なぜ」や「どうして」という思考に繋げられる。
まず相手のことを知りたければ、もやもやしていたり、消化不良を起こしている感情の矛先を自己に向けてみる。
そういうことを頭に入れて、今年度も過ごしたいと常に思う。
会いたい人に会いに行く
新年度が始まった。
タイムラインには元気一杯、やる気いっぱいの書き込みで溢れてる。
春を感じるひとつ、だったりする。
でも私は書かないんだ、そういうこと。
書けないんだ。
出だしにいいこと書いて、崩れて言った自分のトラウマがある。
過去の記事を見ると虫唾が走るほどだ・・・
もう、口先だけいいこと言って人に言えないようなことはしたくない。
だから、この時期パワー溢れることを体が受け付けられない。それは、他を否定することではなくて、自分のやり方がこうした方があっている…と、わかっているからだ。
毎日輝いていたり元気溢れたりすごくなくていい。当たり前のことを、ひとつひとつひしひしとやる。
最近は、会いたいと思う人、会いたいと言ってくれる人たちにあって元気をもらっている。
なにか、利益があるわけでも特別なわけでもない。
でも、会いたいと言ってくれることが特別なんだと、そういう当たり前のようで実は当たり前でないことをひとつひとつ大切にしたい。