WEDGE

迷いながら自問する日常。書くことで未来を紬ぐ。

足元の大切なものに気がつくために

法事や帰省の予定が終わると、殆どなにもない。

なにもないというのは語弊があるが、自分の縛られている用事がなくなる。これからは、自分がやりたい用事だけになる。

 

この夏は全部はできなかったけれど、会いたいと思う人、場所に訪れようと思う。

勉強会で出会った友達、会いたい先生、尊敬している同僚の先生と飲み会、初任研のときの部屋割りが同じだった同期との再会、授業記録の学習会の計画、趣味の寺社仏閣巡り・・・などなど。遠くのものに手をのばすのではなく、なんだか近くのものをしっかり噛みしめる感じ。

そうして、予定を立てていると不思議と、声がかかる。セミナーで出会った友だちが会いたいと言ってくれることとか。こういうの、素直に嬉しい。

 

 

『愚直』という言葉は知っていたが、きっと知ったつもりだった。

忙しさや、キラキラしたものに飛びつき、流されたまま、この言葉を字面で知ったつもりになり、使ったつもりになっていた。

今、少しずつ本当の意味でこの言葉をわかっているような気がしている。

 

もともと、自分自身のメモリが少ないのでそんなに覚えていられない。

けれども、誰かの言った自分の中に刻みたい言葉は拙いながら大事にしまっていて、必要に応じてその誰かの言葉を自分に言い聞かせている。

以前観に行った写真家ソール・ライターの写真展で彼の遺した言葉も私の感情を揺さぶるものがあって大事にしまっている。彼の言葉はなんだか悟りをひらいた人みたいだ。

 

わたしが写真を撮るのは自宅周辺だ。

神秘的なことは馴染み深い場所で起こっていると思っている。世界の裏側まで行くひつようはないんだ。

私の大事にしたい言葉のひとつだ。 

大事なことは本当は、自分の足元にたくさん転がっているのに気が付かないでいる。そう言われている気がする。

私はどれだけの足元にある大事なことに気が付かずこのまま来てしまったのだろう。

気がついて、すくい拾えるのなら、今。

今は見ないふりし、気が付かないふりをしてきた足元の大事なことを一つ一つ大事に拾っていきたい。

 

切実にそう思う。