WEDGE

迷いながら自問する日常。書くことで未来を紬ぐ。

本は人に会える時間

 私には、毎日のように思い出しずっと引っかかっていたエピソードがあった。

 先日、とある人達とすごく久しぶりに再開した時があった。久しぶりなので、それぞれが何をしているか話すことになった。私も特に隠すことなく特別支援に関わって仕事をしていること、どういう子たちと関わっているかを簡単に話した。私の次に話した人が、しみじみと「自分の子どもが発達障害などもって生まれなくてよかった」といった。このことがずうっと脳裏に張り付いて仕方がなかった。なんとなく、自分の気持ちがあるのだけれど、それを言語化してはいけない、そういう思いだった。

 昨日の移動中に、同僚の大先輩が貸してくれた、『福祉の思想(糸賀一雄)』をずうっと読んでいた。そこに書かれていた言葉が、私のそのもやもやした気持ちを払拭してくれた。

「この子たちにこんなものができるとは夢にも思わなかった」

と感嘆する人もある。そして同時に、

「うちの子はこんな子に生まれないで、それだけでも感謝しなければならない」

と心のなかでつぶやいているのである。この感嘆とつぶやきは、じつは、同じ根からうまれたものである。どんなにかくしても、そこには精神薄弱児に対する軽蔑の気持ちがひそんでいることは否定出来ないのであろう。

 ああ、自分のもやもやしていた気持ちって、これのことだったのかは、はっきりした気がした。「軽蔑」と頭でわかっていても、言い切れなかったし、本当はそう思っていないと願っていたのだと思う。

 こんな昔の本にかかれていても、いまでも同じ事がある。今週も、「特別支援に通っているから・・・」と言われ軽蔑されて泣いていて子を見て、引き裂かれそうな思いになった、すごく辛かった。特別支援やインクルーシブと言われる言葉が増えてきている中でも、まだまだそういう事実があることを知識でなく、実際に感じた。特別支援の仕事は楽そう、と思われているのも軽蔑なかも知れない。

 糸賀先生にはもう会えないけれど、糸賀先生の本を読んだことで、背中を押してもらえたような気持ちになった。それは『この子らを世の光に』を読んだ時に確実に感じた。本は、会えない人に会わせてくれる時間を提供してくれる。

 糸賀先生や片倉先生の本を読んで、そしてそういう「軽蔑」がまだ残る中で、自分のできることは何なのかということをずっと考えている。

 

 

 話はそれるけれども、築地先生のビデオを見た。以前、鈴木恵子先生の講座でも見たことがあったけれども、子どもが生き生きしているのである。

 すごいと言われる先生は確実に何処かで個の対応の手を打っている。個の対応を担任がどの位、どういう時に、どのようにされているのかに気づくのは、参観者の見る器、技量でしか受け取れない。そして、1時間の授業のなかで個の対応は一つだけではなく緻密に多岐にわたって、されている。

 築地先生のビデオを見て、杉渕先生の学級を直接見に行ったときの感覚と繋がった。

 

 

 今日も少しだけ学びに出かけよう。

 

 

福祉の思想 (NHKブックス)

福祉の思想 (NHKブックス)