WEDGE

書いて頭の中を整理する、自己満足のたのしいブログ。

分かるは使えるか

 発達特性が強い子(本当はどの子にも必要なわけで、これと言って"発達障害"と言いたくないけれど)には、言語化する、説明することに困難を要する場合が多い。説明できないことで、教師の前で不利になったり理不尽なことを言われてしまう。そういう訴えを子ども自身から聞き、よく相談が来る。

 こういうことを見ていると、話をしてわかり合うことが大事とか、分かるということは相手に説明ができてはじめて自分の知識になるということを知識ではなく体験として、子どもが教えてくれる。私にとって子どもはいつも教師だ。

 

 昨日は、説明するという課題に取り組んでみた。私が教室に入り座るところまでをジャスチャーし、それを説明する。簡潔にできたら、それをもっと詳しく言ってもらう。語彙が少なかったり、独特の表現の仕方が出てくる場合はこちらが訂正し、教える。どこかの研修会で、作文を書かせる時にやらせるという話を聞いて、それを言葉で説明することに変えたものを続けている。

 

 昨年、グループでゲームをした時に、審判がよく見ていなかったからとか、今は自分が点数を取れたはずなのにとどうも自分に都合の良い言い訳…この子は必死なのだろうが、はたから見るとそれは言い訳にしか聞こえない、世界が共有できないことがよく起こる。それで、「じゃあ、どうしたら得点がもらえるか説明して」と聞くと説明ができない。理解してないのだ。

 それで、モデルを示して、この場合は?得点になる?ならない?という状況を何パターンかした後に、どして得点になったのか聞くと、ようやく説明ができて、理解ができた。それで、やっと「わかる」ということになる。

 

 大人でも一緒だ。私も知識の詰め込みだけではなく、どこかで何かの環境、ツールでアウトプットが必要なのだと思う。ここもアウトプットだけど。そんなことをいつも考えている。