わたしが私であるために
昨日は医療保育士の方のお宅にお邪魔した。
どこか引かれ合うところがあって、会いたいと思った時はお互い潰れていたり、凹んでいたりすることが多い。苦笑
会って話を聴いてもらってハグして元気をもらう。これがいつもの流れ。
話すととてもあったかい気持ちになれて、また少し歩んでみようかなという気持ちになれる。
昨日は、他に誘いたい人がいたら連れてきてということで、医療保育士の方にどうしても会わせたい友人も連れて行った。人と人をつなぐというのは、自慢ではないのだけれど、何年も前からこの部分に関してはハズレがなくて少し自信がある。昨日もいい出会いだったと思う。
どうして2人は出会ったのとか、どういう仲なのとか医療保育士の方がずんずんと聴いてくるんだけど、友人の彼女は私のことを迷いなくあっさり答える。
恋人みたいでなんか恥ずかしい。笑
それでも、彼女が私のことを迷いなく答えられることと、私のことを「こういう人」って決めつけないことが信頼できる理由なのだとわかった。
私は自分のことがあまり良くわかっていない。周りから、こうだよ、と言われることで自分を作ってきたのかもしれない。
けれども、私のことを「こうだよ」と決めつけない彼女の考えがなんだかとても気持ちよかった。そうじゃなくて、自分はこう…っていうのは、周りから言われて気付いたり、そうなんだって思うより、自分で決めていくことが大事なのだと、彼女からなんだかまた新しく教わった気がする。
決めつけられるのが本当は嫌いなのに、決めつけられることに甘んじていたってなんだか変な話だけど。
「この人こういう人だから」っていう色メガネで見ない彼女がいるから、私は支えられているんだろうなと思った。
なんていう、今日は自分に語りかけたような書き込み。
対話を大切にしたいわたしがどうして対話を大切にしたいのか、ということを改めて考えさせられたんじゃないかと思う。
わたしについてはわからないからこそ難しくなってしまうことは、まだたくさんある。
でも、時に厳しく律してくれたり、時に一緒に楽しんでくれる彼女の存在がこの一ヶ月どれだけありがたかったことかっていうのがわかった昨日だったというボヤキでした。
夏らしいことをしよう
昨日は同僚の先生と飲んだ。
元々一緒に行くはずだった講義に出られなくなって、飲むことに。笑
普段できない話や、プライベートのことなど話に花が咲いた。
去年がわりと厳しくて、そういうお互いがつらかった時期にいろいろなことを聞いてもらったので、割と何でも話せる関係になった。
私自身は本当に人と関わる時に、自分でもなぜこんなにも…と思うほど警戒心が強かったり、疑ってしまったりすることが多い。
そういう中でも、割と何でも話せる関係を気付けるってありがたいことなのだ。
人と関わるって大事。話をすることで自分の思考が整理されるタイプの私は、話すことがやっぱり大事。
それにしても、先週も今週もビアマウントに行っているって私どれだけビアマウント好きなんだろう。笑
そして、ずっと飲み続けている。
言い訳は、夏休みだからま、いっか。
今日も誘われてふらふら…である。
足元の大切なものに気がつくために
法事や帰省の予定が終わると、殆どなにもない。
なにもないというのは語弊があるが、自分の縛られている用事がなくなる。これからは、自分がやりたい用事だけになる。
この夏は全部はできなかったけれど、会いたいと思う人、場所に訪れようと思う。
勉強会で出会った友達、会いたい先生、尊敬している同僚の先生と飲み会、初任研のときの部屋割りが同じだった同期との再会、授業記録の学習会の計画、趣味の寺社仏閣巡り・・・などなど。遠くのものに手をのばすのではなく、なんだか近くのものをしっかり噛みしめる感じ。
そうして、予定を立てていると不思議と、声がかかる。セミナーで出会った友だちが会いたいと言ってくれることとか。こういうの、素直に嬉しい。
『愚直』という言葉は知っていたが、きっと知ったつもりだった。
忙しさや、キラキラしたものに飛びつき、流されたまま、この言葉を字面で知ったつもりになり、使ったつもりになっていた。
今、少しずつ本当の意味でこの言葉をわかっているような気がしている。
もともと、自分自身のメモリが少ないのでそんなに覚えていられない。
けれども、誰かの言った自分の中に刻みたい言葉は拙いながら大事にしまっていて、必要に応じてその誰かの言葉を自分に言い聞かせている。
以前観に行った写真家ソール・ライターの写真展で彼の遺した言葉も私の感情を揺さぶるものがあって大事にしまっている。彼の言葉はなんだか悟りをひらいた人みたいだ。
わたしが写真を撮るのは自宅周辺だ。
神秘的なことは馴染み深い場所で起こっていると思っている。世界の裏側まで行くひつようはないんだ。
私の大事にしたい言葉のひとつだ。
大事なことは本当は、自分の足元にたくさん転がっているのに気が付かないでいる。そう言われている気がする。
私はどれだけの足元にある大事なことに気が付かずこのまま来てしまったのだろう。
気がついて、すくい拾えるのなら、今。
今は見ないふりし、気が付かないふりをしてきた足元の大事なことを一つ一つ大事に拾っていきたい。
切実にそう思う。
行動から状態を読み取る
7月も最終日になった。
自分のブログを眺めてふと思ったのは、6,7月の記事の少なさだった。
体調的にも、精神的にもあまり良好でなかったことが伺える。
私は自分自身のことは悪くなってから気がつくことが多くて、この歳まであまり予防的な視野は持てなかったと感じている。
食べることに関しても、食がこれだけ大事だと気がついたのもここ2年くらいの話。
こうやってブログの数を見て自分の状態を考えることもここ最近の話。
自分の健康管理は自分でしなくちゃいけないのだが、手遅れになってから気がつくことが多い。要約すると失敗しないと学べない。と言った感じになる。失敗する前にサインが気がつけたらいいのだけれど、いろいろな事象とか感情があったりすると、それさえも気が付かない。
最近のブログの書きぶりを見ると、少し自分に余裕が出てきた感じが伺える。今日も、コーヒーを入れて朝の時間をゆっくり過ごせるくらいになってきている。
ここ最近、朝を大事にしてみるとわかったことはやはり自分にとって、朝の時間は必要なのだろうということ。読書したり、書き物したり。少し余裕の時間を持ってから一日を過ごす、これ私にとってはすごく大事なことなのだと思う。
朝の時間の有効活用、また少しずつ始めていこうと思う。
夏はまだ始まったばかりなのだけれど、内省をしつつ過ぎ去る時間の過ごし方も考え直したい7月の最後の日。
深めて学ぶことで入り口に立つということ。
昨日で筑波大学の集中講義が終わった。
特別支援の免許取得のための長い時間だった。
朝から夕方まで、1コマ100分の講座が続く毎日がとてもつらく、時に苦痛に感じる時間もあった。
なぜ取ろうと決めたのか。
これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~(平成27年12月21日 中央教育審議会答申)(抄):文部科学省
文科省は特別支援学校教諭の特別支援の免許状取得を平成32年度までにほぼ100%を目指している。
私自身は、特別支援学校の教員でもなく、今は特別支援学校への異動も考えていない。
ただ、自分が特別支援教育に携わることでゆくゆくそちらにも興味関心が出てくるだろうとは確信している。時間が取れ、行動できるときが取りどきだと思い、この夏は筑波大学に通うことにした。
学んでみた感想は、単純に面白かったということと、自分の認識の世界の狭さ・甘さに愕然とした。私は、特別支援という言葉を自分の目の前の子どもを基準に見ていたのだった。特別支援というこの漢字四文字でしかない言葉からは想像できない、この世界の広さがあった。
肢体不自由、病弱、盲聾、そういうのを改めてきちんと概論から学ぶことが出来た。それとともに、とても興味が湧いた。
昨日の話にも立ち戻るのだが、結局、神経心理学とか、応用行動分析の話、切っては切れない心理学に関わる話が集中講義ではたえず出てきて、なんだか大学時代の学び直しをしている気がした。と、ともにここで学んでいくことをメッセージとしているのかもしれないとも(勝手に)受け取った。
自分が今まで、周りのたくさんの情報に振り回され…というか、自分が自分を振り回し、何をしたいのか情報過多の中に埋もれてしまい見えなくなっていた。
たくさんの興味の赴くままにつまみ食いのように様々なことを学んだことは決して悪くはない。ただ、もうそういう時期でもないと考えている。
私の今の頭で比喩するならば、本当に大事な食事は粗食で栄養バランスの取れたものを食べなくちゃいけないのに、周りから出されるジャンクなものや高級品ばかりに目がいってそういうものばかり食べて体を壊していた状態に近いのかもしれない。
筑波大学での長い講義期間では、自分の原点に戻るとともに自分が何を学びたいのかが見えてきた。
そんな時に思い出すのは、徒然草のこの話。
吉田兼好も『人生は一点突破』と言っている。もう随分昔から先人が言っているのに、私は・・・なんて思うけれども、気付いたときがスタート。
この夏は、スタートする夏にしたい。前向きに考えて、幸先よくスタートが切れたんだと思って過ごしていこうと思う。
夏休みにモードにしよう、少しずつ。
偶然の連続が必然的になるとき
大学での連日の集中講義では専門用語がたくさん出てくる。
昨日は、嫌子消失、強化子、両側検定、片側検定とか、有意確率、アセスメントバッテリー…などなど。
私に取っては、全部聞いたことがある単語ばかりだ。それは、私が心理学部出身だからだろう。
昨日の長い講義の中で、ふと、もし私が心理学を大学で学んでいなかったらこの連日の講義は聞けていたのかとぼんやり考えた。いや、きっと聞けていないと思う。
なにせ初めてのことにはものすごく抵抗があり受け入れられないからだ。苦笑
大学を受験する時に、教育学部を受けた。そしたら落ちた。しょうがなく、心理学部に申請を出した。母に受けてみたらと言われたからとりあえず受けた。そしたら受かった。そんな軽い感じだった。
教員免許も教師になりたいとか強い思いはなかったのだがなんとなく取った。教採も最初はなる気がなくて、(こんなこと書いたら怒られるけれど)渋々受けに行って参考書なんか買ったけど一度も開かなかったし、1分も勉強しなかったから鉛筆の先に数字を振って転がして出た数をマークシートに記入してた。もちろん落ちた。
それでも、今、教員をしているし、あの時はこうなるなんて思わなかった心理学がむしろ今一番役に立っている。少しわがままを云うならば、心理検査とか精神疾患とか鬱とか病院臨床専門のゼミではなく学校臨床のゼミにいたら違ったのかも。
でも、それはその時の興味であって。
ただ、あの時関係ないとか必要ないとかそんなに熱中していなかったものちたが今すごく役に立って熱中している。まわりまわって、私の中ではいま一周して戻っきた感じだ。
いろんなものをつまみ食いのように美味しいところだけ拾っていくのはもうやめたい。自分が今必要なことを着々と、基盤を作れるように、今何が大事かやりたいことが少しずつ見えてきた。それに向かって一歩ずつでいいから歩んでいきたい。
筑波大での集中講義も今日で最後だ。
今日は試験のある日。講義を聞きながら、少し自分と対話を続けたい。
私にとっての面白いとは
面白いとはなんだろうか。
心理学と同じで、氷山の一角で自分が分かっている面白さと、分かっていない面白さがある。
筑波大での2日目の講座が歴史から学ぶだった。大抵のことは過去の人がすでに考えている。これは面白かった。私の根本的な部分でやはり、歴史が好きなのだろう(笑)
それに、最近よく徒然草を手にとって読んでしまう。大抵の人の思いや人との関わりの大事なことはもう分かっていて、シンプルに語られている。そこがまた面白いんだと思って同じところを何度も何度も読んでいるんだと思う。
収納とはほぼいらないもの
どこかで読んだけど、収納されたものは見えなくなり使わなくなる。忘れた頃に、こんなもの持っていたのかというものがほとんどだということらしい。
収納とはいらないものに近い。
人生に必要なものは本当に一握りだ。
自分の物の多さがまるで自分の人生を物語っているように思えてきて仕方がない。
人生に必要なものなんてそう多くない。
溢れるものを見て嘆くより、スマートに生きられる方法を探そう。
人生に必要なものなんて一握り。
吉田兼好もそう書いている。
日常を取り戻す
気がついたら7月になっていた。
今年も半年が過ぎた。
6月は早起きも大して出来ず、自分で決めた読了数もクリア出来ず、記録も滞った。
そういう気持ちが上がらない時は、無理しちゃだめなこともわかっている。
誰かの為に頑張っているわけでもない。自分が難しい時は、そういうものときちんと向き合う。
6月は、自分についてたくさんたくさん考えた。
その中で、手を差し伸べてくれる人もいたし、すごいタイミングで「ああ、自分に送られているんだな」って思わざるをえないメッセージを受け取ることもあった。
それらを忘れないで噛み締めたい。
少しずつ回復していると思う。
7月は自分を取り戻す時期だと思う。そう思って歩んでいきたい。
ただ、何もできなかったわけではなく、毎週月曜に発行していた個人通信だけは書き続けていた。それは、手に取ってくれて読んでくれる人たちがいたからだと思う。フィードバックももらえている。ありがたいことだ。
一昨日は、仕事帰りにあじさい祭りに行ってきた。
園内に堂々と・・・ではなく、ひっそりと道のあちこちに咲いているあじさい。
雨露に濡れてきれいだった。
季節のものをその季節に楽しむ心を忘れないでいたいなと思う。