深めて学ぶことで入り口に立つということ。
昨日で筑波大学の集中講義が終わった。
特別支援の免許取得のための長い時間だった。
朝から夕方まで、1コマ100分の講座が続く毎日がとてもつらく、時に苦痛に感じる時間もあった。
なぜ取ろうと決めたのか。
これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~(平成27年12月21日 中央教育審議会答申)(抄):文部科学省
文科省は特別支援学校教諭の特別支援の免許状取得を平成32年度までにほぼ100%を目指している。
私自身は、特別支援学校の教員でもなく、今は特別支援学校への異動も考えていない。
ただ、自分が特別支援教育に携わることでゆくゆくそちらにも興味関心が出てくるだろうとは確信している。時間が取れ、行動できるときが取りどきだと思い、この夏は筑波大学に通うことにした。
学んでみた感想は、単純に面白かったということと、自分の認識の世界の狭さ・甘さに愕然とした。私は、特別支援という言葉を自分の目の前の子どもを基準に見ていたのだった。特別支援というこの漢字四文字でしかない言葉からは想像できない、この世界の広さがあった。
肢体不自由、病弱、盲聾、そういうのを改めてきちんと概論から学ぶことが出来た。それとともに、とても興味が湧いた。
昨日の話にも立ち戻るのだが、結局、神経心理学とか、応用行動分析の話、切っては切れない心理学に関わる話が集中講義ではたえず出てきて、なんだか大学時代の学び直しをしている気がした。と、ともにここで学んでいくことをメッセージとしているのかもしれないとも(勝手に)受け取った。
自分が今まで、周りのたくさんの情報に振り回され…というか、自分が自分を振り回し、何をしたいのか情報過多の中に埋もれてしまい見えなくなっていた。
たくさんの興味の赴くままにつまみ食いのように様々なことを学んだことは決して悪くはない。ただ、もうそういう時期でもないと考えている。
私の今の頭で比喩するならば、本当に大事な食事は粗食で栄養バランスの取れたものを食べなくちゃいけないのに、周りから出されるジャンクなものや高級品ばかりに目がいってそういうものばかり食べて体を壊していた状態に近いのかもしれない。
筑波大学での長い講義期間では、自分の原点に戻るとともに自分が何を学びたいのかが見えてきた。
そんな時に思い出すのは、徒然草のこの話。
吉田兼好も『人生は一点突破』と言っている。もう随分昔から先人が言っているのに、私は・・・なんて思うけれども、気付いたときがスタート。
この夏は、スタートする夏にしたい。前向きに考えて、幸先よくスタートが切れたんだと思って過ごしていこうと思う。
夏休みにモードにしよう、少しずつ。
偶然の連続が必然的になるとき
大学での連日の集中講義では専門用語がたくさん出てくる。
昨日は、嫌子消失、強化子、両側検定、片側検定とか、有意確率、アセスメントバッテリー…などなど。
私に取っては、全部聞いたことがある単語ばかりだ。それは、私が心理学部出身だからだろう。
昨日の長い講義の中で、ふと、もし私が心理学を大学で学んでいなかったらこの連日の講義は聞けていたのかとぼんやり考えた。いや、きっと聞けていないと思う。
なにせ初めてのことにはものすごく抵抗があり受け入れられないからだ。苦笑
大学を受験する時に、教育学部を受けた。そしたら落ちた。しょうがなく、心理学部に申請を出した。母に受けてみたらと言われたからとりあえず受けた。そしたら受かった。そんな軽い感じだった。
教員免許も教師になりたいとか強い思いはなかったのだがなんとなく取った。教採も最初はなる気がなくて、(こんなこと書いたら怒られるけれど)渋々受けに行って参考書なんか買ったけど一度も開かなかったし、1分も勉強しなかったから鉛筆の先に数字を振って転がして出た数をマークシートに記入してた。もちろん落ちた。
それでも、今、教員をしているし、あの時はこうなるなんて思わなかった心理学がむしろ今一番役に立っている。少しわがままを云うならば、心理検査とか精神疾患とか鬱とか病院臨床専門のゼミではなく学校臨床のゼミにいたら違ったのかも。
でも、それはその時の興味であって。
ただ、あの時関係ないとか必要ないとかそんなに熱中していなかったものちたが今すごく役に立って熱中している。まわりまわって、私の中ではいま一周して戻っきた感じだ。
いろんなものをつまみ食いのように美味しいところだけ拾っていくのはもうやめたい。自分が今必要なことを着々と、基盤を作れるように、今何が大事かやりたいことが少しずつ見えてきた。それに向かって一歩ずつでいいから歩んでいきたい。
筑波大での集中講義も今日で最後だ。
今日は試験のある日。講義を聞きながら、少し自分と対話を続けたい。
私にとっての面白いとは
面白いとはなんだろうか。
心理学と同じで、氷山の一角で自分が分かっている面白さと、分かっていない面白さがある。
筑波大での2日目の講座が歴史から学ぶだった。大抵のことは過去の人がすでに考えている。これは面白かった。私の根本的な部分でやはり、歴史が好きなのだろう(笑)
それに、最近よく徒然草を手にとって読んでしまう。大抵の人の思いや人との関わりの大事なことはもう分かっていて、シンプルに語られている。そこがまた面白いんだと思って同じところを何度も何度も読んでいるんだと思う。
収納とはほぼいらないもの
どこかで読んだけど、収納されたものは見えなくなり使わなくなる。忘れた頃に、こんなもの持っていたのかというものがほとんどだということらしい。
収納とはいらないものに近い。
人生に必要なものは本当に一握りだ。
自分の物の多さがまるで自分の人生を物語っているように思えてきて仕方がない。
人生に必要なものなんてそう多くない。
溢れるものを見て嘆くより、スマートに生きられる方法を探そう。
人生に必要なものなんて一握り。
吉田兼好もそう書いている。
日常を取り戻す
気がついたら7月になっていた。
今年も半年が過ぎた。
6月は早起きも大して出来ず、自分で決めた読了数もクリア出来ず、記録も滞った。
そういう気持ちが上がらない時は、無理しちゃだめなこともわかっている。
誰かの為に頑張っているわけでもない。自分が難しい時は、そういうものときちんと向き合う。
6月は、自分についてたくさんたくさん考えた。
その中で、手を差し伸べてくれる人もいたし、すごいタイミングで「ああ、自分に送られているんだな」って思わざるをえないメッセージを受け取ることもあった。
それらを忘れないで噛み締めたい。
少しずつ回復していると思う。
7月は自分を取り戻す時期だと思う。そう思って歩んでいきたい。
ただ、何もできなかったわけではなく、毎週月曜に発行していた個人通信だけは書き続けていた。それは、手に取ってくれて読んでくれる人たちがいたからだと思う。フィードバックももらえている。ありがたいことだ。
一昨日は、仕事帰りにあじさい祭りに行ってきた。
園内に堂々と・・・ではなく、ひっそりと道のあちこちに咲いているあじさい。
雨露に濡れてきれいだった。
季節のものをその季節に楽しむ心を忘れないでいたいなと思う。
第2回 プロフェッショナル"教師の仕事力" あかはな先生流 子どもとの関わり方
昨日はこちらに参加。
副島先生の話を聴くのは2回目だと思う。
毎年話を聴いておきたい人が何人かいるのだが、副島先生はその1人。魂で語る方だと思う。また、副島先生の話を聞くのは勇気がいる。絶対涙するとわかっているからだ。苦笑
今回も、ご多分に漏れずお涙頂戴を何度かしてしまった。突き刺さるような全身での語りに自分の心の奥まで届いてくる言葉。
手法やハウツーではない、明日すぐに変えられるわけではないけれど、どんなことを大事に教師と言う前に、人としてどうやって歩いていくのかが大事なことばかりだった。
突き刺さった言葉は『最後に苦しむ、悲しむのはあなた自身なんだ。』という台詞だった。
我慢もしない、頑張らない、ありのままの自分を受け入れることはどういうことか。
子どもに言う前に自分ができているのだろうか。すごくすごく考える時間だった。
アンテナに引っかかってお会いしに行ったのだが、アンテナは当たっていたようだった。
本とかDVDでは伝わらない、その場の空気を感じながら話を聞くために、その人の魂の声を聴くために私は直接講座に行くのだろうなと思った。(ちょっと大袈裟な言い方だけれども)
この足で踏み出せば
慌ただしい一週間だった。
それはいつものことだけれど、忙しさも毎週色が違う。学校現場とはどうしても新しいことをたくさんやって先生たちは疲弊していくのだろうと思う。思っているだけだけど、その中にいて自分が倒れずやっていく方法をいつも考えている。
今週も何度か布団に行き着かず床で倒れていた。
最近はこのアルバムばかり聴いている。
ALMATIC. 通常盤 / +α/あるふぁきゅん。 - 徳間ジャパン http://www.tkma.co.jp/jpop_release_detail/alfakyun.html?rid=8711
毎年話を聞きたい人が何人かいる。
今日は筑波大の近くで、そんな話を聞きたい先生の講演。
ちゃんと調べて、正しい情報にアクセスする
情報過多の時代。
私自身たくさんの書き込み、情報に右往左往して疲弊することが多い。
自分から情報に触れることを減らしたり、時に必要な時は情報量を増やしたりする。
そして、それらの情報が本当なのか、という批判的な視点も必要だ。
そんな前置きは置いておいて。
先日、糸賀先生のご著書で何度か出てくる、日本で最初の重度知的障害者の施設がどこにあるか、ふと、調べてみた。
施設の名前から、都心にあると思っていた。
驚いたことはうちからすごく近いところが所在地であった。
これには本当に驚いた。
なんていう縁なのだろうと嬉しさも込み上げて来た。
先入観や偏見を持たずに正しい情報に触れる。
たくさんの口コミや批評の中で自分の考えを確かに持つ。
そんなことをぼんやり考えた。
(ブログの連日記録を途切れさせたくなかった、、、というだけの話でもある)
君は 視線そらさずに 前を見てるから
昨日は、心許せる友人と語った。
たくさんのことを。
ちょっと前までは毎月泊まりで例会をしていたのだけど(笑)久しぶり。
この前のファシグラの会で『話したくない人はいない。みんな自分のことや考えていることを話したいんだ。』と石橋君が言っていたセリフが脳裏に浮かぶ。
そうだよなぁ、まさに。と思う。
がっかりするような悲しい話もあったけれど。
最近は自分のことをもっと、ちゃんと様々な面から真剣に受け止め考えたい自分がいる。
そんなきっかけと時間をくれた友人との時間だった。
ある本に『自分のことを本当にわかってくれる人が一人でもいたら人は幸せだと思う。』という言葉が書かれていたけれどまさにそんな感じ。
私にはちゃんとそういう人がいる。
本当に…本当に、ありがたいことだ。
忙しさの中に見つけるもの
私の場合、発信が減るということは、メンタルダウンのパターンが多い。
最近も、Facebook、Twitter、インスタ・・・ほとんど発信していない。が、ここ最近の浮上してない率はメンタルダウンではない。忙しいのだ。笑
忙しくて、そういう外部に接続する事に気が向かなくなっている。良いか悪いかという話はではない。そういうときもあるしそういう時期なのだと考えている。つなげたり、発信ができなかったりしてイライラする事もない。ちょうどいい疲れと多忙感に追われている。
今年度に入って格段と仕事量が増えた。任されることも多くなった。民間ではなく、仕事の中で講師をすることも多くなった。自主的に勉強会を企画したり、自分で決めて個人通信を出したり内発的動機づけに近いことも増えた。人のために時間を使うことも多くなってきたし、そうしようと意識もしている。
そして、いまそれを楽しんでいる自分がいるということも分かる。
新しく見えてきたこともたくさんある。
地に足をつけて少しずつ、仕事できるようになってきた。世界が広がってきたのだと思っている。
そんな忙しい中でも、おしゃべりすることは公私ともに忘れない。やっぱり自分にとっておしゃべりはとても大切な鍵だとここのところ日々、特に感じている。
そういえばこの雑誌にもそんなことを書いたのだが、おしゃべりは自分の大切にしたい柱のひとつだったりする。
暇は人をダメにするという言葉があるけれども、いまはぐるぐると止まれる感じでもない。しかし暇な時も必要なことも知っている。
忙しくても、朝は決めた時間に早起きをして、コーヒーを入れてブログを書く、本を読む。これは続けている。ブログもこんな私でも20日続いていて密かに喜んでいる。笑
自分のことを分析すると、情報過多になり気持ち的に疲弊していた自分には、今の状態はバランスが取れていると思う。
もう少しこの状態が続きそうだけれども、私は今幸せだと思う。
今日で5月が終わる。少し振り返りをしつつ、また6月に向けて走り出したい。
今日は部屋を掃除しよう。友人が泊まりに来る。笑